光を味方につける ~片明かりの女性~
Exif情報
メーカー名 Canon
機種名 EOS 70D
ソフトウェア Digital Photo Professional
レンズ 14-20mm
焦点距離 20mm
露出制御モード マニュアル
シャッタースピード 1/512sec.
絞り値 F2.5
露出補正値 +0.0
測光モード 分割測光
ISO感度 100
ホワイトバランス オート
フラッシュ なし
サイズ 2200x3301 (5,019KB)
撮影日時 2018-11-11 18:29:53 +0900

1   S9000   2019/9/28 17:52

 安芸太田町、吉水園にて。すごい人出でした。
 この場合にレフ板として機能しているのは、左下方にある踏み石のシリーズになっている他の石張り。11月の陽射しがそこにあたり、女性を片明かりとして照らすの図。
 光がさす紅葉と、日陰にいる人物の両立にあたって、石が助けてくれたの図。

 人物、特に女性の輪郭が薄く照らし出されるくらいのライティング(自然光ですが)が好きで、玉ボケ光源と同様に、そういうものを探し回っています。で、あいかわらず「腹減った」は健在で、この日のお祭りで、アユの塩焼きを食べるのを楽しみにしていたことはしっかり覚えています。
 なお、この一枚では、女性の顔の輪郭を照らす光を、DPPの部分補正でプラス補正して増光しています。
 承諾は、「私、邪魔になりますか?」「いえ、そのまま入っていただきたいです。」「え、いいですか」「自然に庭を眺めてください・・・」という会話の後、撮影結果をご覧いただいたもの。

2   S9000   2019/9/28 23:18

 芸術至上主義という用語をお聞きしたところですが、私は露出・ピント・構図のそれぞれの至上主義については存在を知っていたのですが、芸術至上主義というものについて考えたことがありませんでした。
 芸術的ハイメカニズム、などという言葉もありますが、それが芸術そのものではないから「芸術的」なのだ、という理解です。
(「ゴルゴ13」で偽札技師が「これは芸術だ!」と強弁するシーンがあるが、才能の使い方を間違っている!)

 芸術至上主義、という言葉の意味が、倫理や道徳を飛び越えても美しいものを追求するということであれば、そこまでとことん追求することは無理ですが、こと女性に関していえば、「美しいものを眺めているときの女性の表情がこの世で一番美しい」ということは言えると思います。
 だから、もし、専門のモデルではない一般女性を撮影するならば、花園、イルミネーション、すばらしい朝焼け夕焼け、なんでもいいから美しいものをもうとにかく惜しむことなく好きなだけ見せてあげれば、よい表情が引き出せるものと考えています。(そういう撮影をしたことはないが、業界広報のための女子社員撮影ではそれに近いことをしました)

 私自身は、写真撮影は芸術というより技術として習熟するものと考えてうろちょろしているのですが、音楽でも詩でも絵画でも、それだけで芸術として成立するのではなく、当事者以外の人々が、その作品を鑑賞したり保存することに労力や対価を投入することに抵抗を感じないもの、別の表現では「残す価値があると人々が認識するもの」が、芸術なのだと考えます。

 あんまりそういうことを考えすぎるとおかしくなるので、「きれいな人はよりきれいに撮りたい」でいいのではありませんか、うんうん。
 

3   裏街道    2019/9/29 09:31

四日市からこんにちは。
【評価は自分と他人がするもの】
仰り通りですね、自分がする評価はイメージに近いという自己満足で
他人の評価がマジ怖いですね。
『こんな感じに撮ってみたい』とか感じてもらえたならうれしいです。
その昔、日本でも某お笑いタレントの絵がもて囃された時期がありましたが
そのお方は絵を描くことを積極的にしなくなってしまったそうです。
理由は『長い時間をかけて描いた絵の値段が・・・わりに合わない』
との事でした。
『芸術ってそんなもんなの?』と問いたい気分。
他人に理解されようがされまいが、高く売れようが売れまいが
己のイメージを追求し表現し続ける事こそが芸術であり芸術家であるのではないでしょうか。
私に芸術的センスがないのは認めますが『これに運百億!・・・?』
って事が多いです。
【「きれいな人はよりきれいに撮りたい」】ですね。

4   S9000   2019/9/29 14:37

こんにちは、裏街道さん。今日はのんびりと家で作業しつつ、料理やら子どもの勉強相手やらをしています。来週あたりから、実家の稲刈り作業があるので、この土日はのんびりと。
 
 プロの芸術はお金にも関わってきますね。映画とかでは、芸術作品と娯楽作品にジャンル分けされていますが、いずれにせよ興行収入というものがあって、ランク付けされる、と。
 小説「砂の器」(松本清張)には、(犯人が所属している)新進芸術家集団というのが登場しますが、その中の画家が「俺はピカソを認めないが、ピカソの絵が売れることはうらやましい」というセリフを吐いてます。彼らにとっての評価スケールのひとつなのでしょう。
 ちなみに、作中の芸術家集団には、写真家も登場しますが、セリフどころか名前も割り当てられませんでした。松本氏はカスタムのニコンを使うほどに写真好きだったようではありますが。

 「自分の評価、他人の評価」ということでは、最近、こんなことがありました。花の写真コンテストで、かみさんの写真をプリントしてやったのですが、一枚目は設定確認用で、印刷ずれが生じて、フチに予期しない余白が斜めに生じてしまいました。二枚目は、正常で、私としてはこちらのほうが色合いもよいと感じていました。
 しかしながら、かみさんは印刷ずれがあることを承知の上で、一枚目をもって応募することを主張し、そのまんま投函してしまい、そしてかなり上位の入賞を果たしました。私は選外!ぬははは。
 まあこういうこともある、と。
 かみさんはその写真で、まさに「花と会話」してましたね、私はきれいな女性を、よりきれいに表現する手段として、花を添景のように扱ったため、コンテストの主催者(花庭園の管理者)の不興を買った可能性が大、です。天候や光だけでなく、そういうところを読めなくてはいけないです、写真でも何でも、コンテストは人間力の総合勝負・・・今年に入って、ついにかみさんが、入賞・入選の数で私をリードしています、あはははは。

5   S9000   2019/9/29 15:01

 とはいえ、「きれいな人をよりきれいに撮るために」花庭園を環境として扱ったことそのものには、後悔していません。
 これは、私は裏街道さんがおっしゃるように「他人に理解されまいとも」という点ですね。

 ただ、今そこに咲く花、という被写体に向き合うことをしていなかったこと、そこはうかつでした。「きれいな人だけに目を奪われているからそうなるのよ」と言われれば、返す言葉がごじゃいません、ぐすん。

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