無題
Exif情報
メーカー名 OLYMPUS IMAGING CORP.
機種名 E-M1
ソフトウェア Capture One 8 Windows
レンズ
焦点距離 14mm
露出制御モード ノーマルプログラム
シャッタースピード 1/13sec.
絞り値 F3.5
露出補正値 -0.7
測光モード 分割測光
ISO感度 640
ホワイトバランス
フラッシュ なし
サイズ 2048x1536 (1.52MB)
撮影日時 2014-02-10 03:47:02 +0900

1   kusanagi   2021/8/15 13:47

最近は画像をせずに写真行為ができないものかと考えています。一般的には写真=画像であるわけで
すが、この画像がデジタルの場合は大いに問題となるわけで、多くの方々がそこで躓いていると思うんで
すね。
結論から言いますと写真とは画像ではなく、また機材でもなくて、人(ひと)なんではないかということです。
この人というのは、写真人であり和製英語で言えばフォトヒトですか。(^^ゞ ここら辺り、たぶん管理人さん
も最近はそういう考え方になってきているみたいです。

写真画像を分析する場合、かつてはカメラやレンズという機材で分類していたようです。写真雑誌の廃刊
が相次いでいますか、それらは大体は○○カメラとか名が付いていました。この掲示板でもカメラメーカー
ごとに分類されているところがありますね。もちろんジャンル別というのも昔から存在していますが。
これは機材で分析するのが手っ取り早いからでしょう。
しかしながらここで機材を扱うカメラマンも一種の仮想的機材として考えれば、そこにヒトとしての分類や
分析も可能になるのではないかということです。やがてはAI(人工知能)も写真を撮るだろうとすれば、この
考えはあながち的外れではないだろうと考えています。

大体のカメラマンはというか写真人は終生よく似た傾向の写真を撮りつづけるのであって、その写真人の
写真に対する見方とか考え方が有意性を持っているものといえそうです。
そして何よりも、写真文化には最終的というかその文化のエッジとして、写真作家活動というステータスが
あるわけですが、それは機材でもジャンルでもなくてやはりヒトなんですね。その人の思想や哲学です。
https://photoxp.jp/pictures/217321
ここに管理さんの今後の掲示板運営のあらましのようなことが書かれています。
「具体的には、個人単位で掲示板を作れるようにして・・・」というような一節があり、それ多分、価格コムの
写真投稿版であるフォトヒトと同じようなやり方で行くのかなって思えてきます。
確かに現在の写真動向を見ていくと、そういう人を単位とした類分けでないと難しいところがありそうです。
これは多分、投稿者名でも表示が可能というくらいの意味だろうと思ってます。
とにかく、写真とはやはり最終的には写真を撮るカメラマン、写真人というヒトのなせる技であり、その写
真人としての活動、つまりは哲学思想が世間に対しての本当の意味を持つ、ということではないでしょう
かね。

多くの写真人は、大まかには文科系や芸術系の人間であり、ごく稀に理系の方もおられるという構図に
なっています。それで私の場合はこの少ない理系としてのキャラクターを買って出ているのですが、そう
いう技術系の眼からすれば殆どのカメラマン氏は不用心です。そんなんで写真がまともにできるはずが
ないだろうと思うのですが、事実そうなのであって長くできている人は偶々の運でやっているに過ぎない
ところがありますね。
デジタルカメラ、デジタル技術の発展は凄いものがあって、私はもう着いていけてません。今のデジタル
写真は生身の人間ができるものではなくなって来ているように思えるのですが、兎に角あまにも技術だけ
が進み過ぎてしまったかのようです。そういう現状のなかで敢えて写真をやっていきたいとなると過去の
写真のセオリーには無かったようなことまで持ち出してこなければいけないような気がしています。
写真≠画像というのはそういう意味で書いているのであって単純に捉えてもらっては困ります。

最近の私の撮影は投稿写真のようにオリンパスのミラーレスにほぼレンズ一本を着けたまま、という具合
でやってます。撮影に際しては何も考えずにこのカメラ1台だけを持っていく。簡単ですね。(笑)
当然にミラーレスなので電子シャッター設定で、そしてコンデジ風撮影の背面液晶視でやってます。この
撮影手法が一番に身体への負荷が少なくて済み、どんなに撮影しても身体への悪影響は最低限となり
ます。
そして膨大な写真がゲットできるわけですが、その殆どの画像はPCモニターでは見ておりません。撮影時
に記憶のあった手応えのあった画像群をほんの少し見るだけです。そして基本的に画像処理は最低限と
しています。撮影時ほぼそのまんまですかね。
最近はそんな具合で、たしかにカメラを持って出かけるものの、その実、写真撮影の為にやっているので
はないよね、というところですかね。(^^ゞ 

写真の為に出かけるのでなければ、じゃあ何のためにやっているのかと言うと、それはすこぶる単純で
あって、自分の興味のあるものをこの眼で見たいから。ということに尽きます。(^^ゞ 
つまりは写真の為の写真はしない。写真の為だけの行動はしないぞ、ということです。付随としてカメラや
写真はあるかも知れないけどあくまでオマケです。
多くの写真人は自分のためではなく、なんだか分からない写真という空気の為に写真をやっていることに
私も遅ればせながら気がつきました。これは明らかに行き過ぎでしたね。こうこういう写真をすればみんな
が喜ぶのではないか、という間違った動機で写真をやっていただけだと思うのです。

添付した写真は四国高知県東洋町の淀ケ磯、という南下すれば室戸岬というところの海岸です。景勝地
でも何でもなくて撮影の為に車を停めるにも苦労しました。四国徳島の阿南市辺りから、紀伊水道側の
太平洋を南下するのが国道55線なのですが、その国道を散策しながらここが最も景観的に相応しいので
はないかと考えたからです。
それは弘法大師空海の若きし頃の修行の道であったわけでしょうね。たぶんここらの海岸の道なき道を
歩いたのだと思われます。1200年前の話ですから当時は海岸線の浜を歩かざるを得なかったと思います。

この先、ずっとずっと先に室戸岬はあります。そして最難関はこの磯浜ではなかったろうかということで
しょうか。撮影時はずっと雨でしたので、また夕暮れの撮影だったので画質は最低限ですね。だいたい
カメラ自体が画質を云々するカメラではありません。レンズもパナソニックの安物のズームレンズです。
この道は遍路道でもありまして、この偶に歩き遍路の巡礼が見受けられます。私もいつかはこの55線を
歩いてみたいものだと考えていますがさてどうなることやら。(^^ゞ 

弘法大師空海の人となりは極めてユニークですね。これほどの人物が讃岐に出現したとは思えないほど
なのですが当時の日本の文明領域は狭かったので可能だったわけでしょう。
空海は只単に当時の先端の思想技術を日本に招来しただけ、とも考えることができます。しかしながら
当時の東大を中退して山野に放浪した若き時期があったことを思えば、それだけではなかったろうという
ことです。自身の内面から吹き出る衝動のような希求心があったればこその新仏教思想の導入だったろ
うと思います。同時にそれは正に時代の要請でもあったのかもしれません。

占星術的に言えばもはや21世紀の現在は平安時代の空海の時代ではなく、その後の法然親鸞や栄西
道元日蓮の時代となっています。それであまり空海を知ったところが今の時代には役に立たないたろうと
思うのですが(笑)、やはり過去を知ることは大切です。空海の思想は例えていえばカラーフィルム時代の
思想ですかね。デジタル写真はその後の鎌倉仏教の思想でなければ解けないと思ってます。

戻る