メーカー名 | OLYMPUS IMAGING CORP. |
機種名 | E-M1 |
ソフトウェア | Capture One 8 Windows |
レンズ | |
焦点距離 | 14mm |
露出制御モード | ノーマルプログラム |
シャッタースピード | 1/250sec. |
絞り値 | F8.0 |
露出補正値 | -0.3 |
測光モード | 分割測光 |
ISO感度 | 200 |
ホワイトバランス | |
フラッシュ | なし |
サイズ | 2000x1500 (2.37MB) |
撮影日時 | 2014-01-29 13:07:52 +0900 |
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写真とは結局は人である。このことは忘れないでおこうと思ってます。
写真は人を離れては存在しきれないものですからね。撮影者とは無関係に写真は存在しえません。
ですから写真の評論は撮影者への評論になるのであって、只単に写真画像というそのものがこの
世の中に撮影者と無関係に存在して、その写真だけを評論できるものではないのです。
それを言えば撮影者がもし認知力を喪失した場合、その写真とは何なのか。興味深いところです。
多分、それはただの画像なのでしょう。
このkusanagiが、この掲示板のコメントで撮影者に関してコメントをするのはけしからんことだ。とよく
言われるわけですが、そのご意見は本質的に間違っています。写真=撮影者であって、その写真を
評価するには撮影者への思いを馳せなければなりません。また撮影者の意図とかも深く。
おそらくそういう方は、写真というものが撮影者の個性や人間性とは関係なく存在しえて且つ上達でき
るものだと考えているのかもしれません。
しかし現実は、写真は撮影者という人間性から生み出されるものであって、AIやロボットが撮影したも
のではないですね。
写真が撮影者の人間性とは無関係にあるものだと考えている方は写真の本質を知らないでいます。
それから写真評論の本も記事も読んだことがないのでしょう。
これは一種の認知症でして、例えば武器があるから、基地があるから戦争が起きるのであって、それ
ら禁じれば戦争は起きないという不思議な論理とよくにています。そもそも戦争とは侵略する側の国家
の人間達が明確に意図して起こすものであって、武器や軍隊組織自体がかつてに起こすものではあり
ません。武器=写真、侵略者の人間=撮影者であるわけですね。
こういうことからして、写真評論とは当然の帰結として撮影者への(写真的)評価となりうるのです。
しかし最近は写真が無機質化してきて撮影者という人間の匂いがしない写真が多くなってきています。
私はそれを写真ではなく画像だとして考えるのですが、これはデジタル時代の特徴かもしれませんね。
しかし無機質写真という画像は同時に認知症写真でもあるわけです。