メーカー名 | OLYMPUS IMAGING CORP. |
機種名 | E-M1 |
ソフトウェア | Capture One 8 Windows |
レンズ | |
焦点距離 | 14mm |
露出制御モード | ノーマルプログラム |
シャッタースピード | 1/50sec. |
絞り値 | F3.5 |
露出補正値 | -0.3 |
測光モード | 分割測光 |
ISO感度 | 200 |
ホワイトバランス | |
フラッシュ | なし |
サイズ | 1500x2000 (1.89MB) |
撮影日時 | 2014-01-29 14:49:22 +0900 |
⑨
『同士少女よ、敵を撃て』 で興味深いと感じたことは2つあって、ひとつは一箇所で長く狙撃ないし撮影
をしないこと。これは私自身、以前から行っていることです。常に位置を変えるというか先に進むという
ことです。
もうひとつは、狙撃ならばスコア。撮影ならば傑作数を誇らないということです。これをやると邪心が
出てくるという気がしています。よく写真道では邪道と言う言葉をつかうようですが、邪心の場合こそが
問題です。そして過去の写真に拘らないと言うこと。昔の写真などはすっぱりと忘れてしまうことが
肝心です。
写真ではこれらの問題は精神的なものに限られますが、狙撃の場合は文字通り死に至る結果を招き
ます。同じ場所で長く居続けると敵から反撃を受けますし、スコアで邪心や欲が出てきますとそれも
死にいたる行程となります。
自分の弾が最後だと思うな。それは反撃する側もそうだからです。自分も狙われていることを常に意識
していなければならないということ。
撮影者は被写体を撮影します。しかし同時に被写体からも見られていると考えるべきだということで
しょうね。一方的にこちらが優位に立っているわけではないということ。これを忘れるといけません。
具体的にはショット数は最低限にするべきだということ。考えて撮影すべきですし、無駄なショットは慎む
べきだと言うことになります。
無駄な多すぎるショットは撮影者の疲労と健康を蝕みます。欲に駆られて撮り過ぎないことですし、ひと
つところで長く居続けないということでもあるわけです。
そういう欲望は、自分の写真自体から反撃を受けて大きなダメージを受けるということ。
それから写真と狙撃というのは、そのショット時に、大きな満足感というのがあるようです。その時点で
全てを忘れて無心になれるというか、ある意味で束縛を解かれて自由になれるというところがあります
ね。
たぶんこの満足感や自由な感覚を味わいたいから、人は写真をやり続けているのではないですか。
世の中は何かと不自由ですし多くのものに足かせをされていて、純粋に自己を満足させることは叶い
ません。
しかしショットの瞬間こそは自分は天地創造の神になれるというところがあります。それはほんの刹那
ですけどね。(^^ゞ この創造と自由を味わいたいからこそ、ユーザーは写真を撮りつづけるのではない
ですか。