メーカー名 | Canon |
機種名 | EOS 70D |
ソフトウェア | Digital Photo Professional |
レンズ | 180mm |
焦点距離 | 180mm |
露出制御モード | マニュアル |
シャッタースピード | 1/664sec. |
絞り値 | F2.8 |
露出補正値 | +0.0 |
測光モード | 中央重点測光 |
ISO感度 | 100 |
ホワイトバランス | オート |
フラッシュ | なし |
サイズ | 3000x2000 (3.72MB) |
撮影日時 | 2019-05-03 01:20:33 +0900 |
こんにちは。コメントありがとうございます(^^)v
さて、kusanagi氏が「おいらはオタクぢやないよ、まにあだよ、失礼しちゃうな、ぷんぷん」とケンメイに主張するように、オタクは「自分はオタクでない」と熱弁をふるう生き物であり、その熱弁において、「マニア」「道楽」「コレクター」といった代替用語も頻繁に活用するところです。
そのこと自体に良し悪しはなく、「オタク」(当時は「おたく」か、ここ重要で、後ほど出てきます)が発生した昭和の末期において、この用語は人物評価上の否定ニュアンスを強く持っていたので、高齢者層において拒絶反応を持つのはむしろ当然のことです、うんうん。
だからといって、攻撃しているわけぢやないですよ、そこは誤解なきよう。(からかっていることも否定はしませんが(‘◇’)ゞ)
しかし、マニアという言葉も、もともと英語では否定的ニュアンスが強い用語であり、日本においてもけっして尊敬語ではありません。国際的に趣味のつきあいを広げた日本人が、英米人に向かって不用意に「マニア」という呼称を使い、怒らせたという事例もあります。(文脈上の問題もあったのだろうが)
また、マニアという言葉自体、古くから使われているためか、やや陳腐化してきているようにも見えます。「道楽」に至っては、既に自虐の意味で使われているようで、近未来に消失する言葉かもしれません。
そのように、既存の代替用語に勢いが失せていることからか、オタクの言い換え言葉は1990年代以降、カルト、フリーク、エンスー、いきすぎ君など、いくつも提案されてきました。ところが、いずれも定着せず、ことごとく「オタク」に飲み込まれてきてしまっています。むしろ、「オタクでないことの熱弁」「代替概念の説明」の語りクチにオタク個々人の技法と流派、また様式美を見いだす楽しみが現出しているものです(^^)v
少し脱線しますが、オタクもマニアも、事象事物に対する共振(あるいは狂信)を原動力とした思考・志向・嗜好を表現する用語としては重なる面があります。しかし、人生を昭和に重ねて生きた高齢者層が、否定的であることについては、その背景に「余暇の昭和史」があるように思っています。
オタクは出現したのではなく、顕在化したのであって、例えば、「ブームはどう始まりどう終わるか」(中川右介氏)では、カメラ収集オタクのさきがけである田中長徳氏による、「ずっと以前からやってきて、カメラ仲間から変人扱いされていたが、1980年代半ばになって、この嗜好を公言してもよしとする空気を感じた」との述懐がしるされています。
で、「余暇の昭和史」は極言すれば、企業による社員管理を目的とした余暇概念であり、余暇を労働生産力涵養と企業が望む消費者像をまず社員から実践させるものでした。この項目はとても興味深いですがここでは端的に総括すると「テレビCMされている商品は自分もほしい」「テレビ番組で紹介されている観光地やテーマパークに家族で行きたい」と思う消費者像であり、余暇商品の規格化・量産化が高度経済成長を支える一面でした。
この過程で、工業製品としての「三種の神器」(「新」含む)が発達し、21世紀に入って「デジタル三種の神器=薄型テレビ・DVDレコーダー・デジタルカメラ」が確立してます。この「デジタル三神」が2000年代半ばのことで、その前、1990年代後半に「オタク三種の神器」として「パソコン・携帯電話・デジタルカメラ(黎明期)」が存在したと思っています。(「はじまりはいつもオタク」)
で、オタクが顕在化した時期と、「余暇の昭和史」が終焉した時期は一致しており、「人と同じモノがほしい」から「人と違うモノがほしい」という価値観の展開が図られ、ここにシグマオタクを含む、各種モノ・オタクが重層かつ重厚に発達していくわけです。
これだけでは「高齢者層がオタクを忌避する理由」としては説得力が乏しいのですが、もうひとつの要因は、1980~1990年代のオタク像が、ひきこもりやパラサイトシングルといった、働かない、家族経営をしない若者像と連結されてしまったことも影響していると思います。「余暇の昭和史」すなわち「労働の昭和史」観を否定するものととらえられてしまった、と。
このあたりは誤解があるようで、私はたくさんのオタクと付き合いがありましたがオタク活動を楽しむためには、経済力と社会的行動力が必要であり、知っているかぎり、オタクにとって学問と勤労は矛盾せず、家庭経営も行っている例も多数あります。というか、そちらが圧倒的多数です。
なお、「フィルムとデジタル」「アナログとデジタル」といった二元論もまた、典型的かつ普遍的なオタクの様式美ですね。ここはまずきちんと踏まなければオタクではありません。
それにしても、一歩引いて考えてみれば、フィルムかデジタルか、というのは写真というアウトプットを得るための入り口から出口までのシステムとしてはごく一部であると思うのですが、そのツールの一部を論じること自体が立派な「オタクの様式美」であって、ここに持続可能なオタク社会の成長を楽観視することができるのです(*^^*)
(よーするに同じことをフィルム時代もやっていたであろう)
というわけで、我々(どこの誰と誰だ?は聞くな)は「オタク」という新しい文化形態の定着過程を眺める贅沢に浴しているわけで、「オタク」概念が登場して、そろそろ40年に近づくが、死語化する様子がいっこうないこと、また、「オタクネイティブ」の世代が高齢者に達したときの高齢者像がどのようになるのか、今後の観察の楽しみが多々あります。
なお、kusanagiさんに限らず、私も、かみさんのX50のショット数は、当初は過少に見積もっていたのですが、ストレージにおける記録データ容量を点検し、おおむね年間1万枚は撮影していることがわかり、昨年1月にシャッターユニット交換をすませています。とはいえ、近年、コロナもあって撮影頻度は減少傾向にあるので、10年間の累計撮影枚数は10万枚弱、というのが実情でしょう。
おそらくこの過少見積もりにも、「余暇の昭和史」観が影響していると思います。家庭における男女共同参画が進んで、女性の余暇も昭和とは変化していることがうかがわれるところ。
さて、今回、チャート曼荼羅、シグマ教、シグマオタクという言葉以外に、「ふぉびおん教」というものも存在しているらしいことを知って、オタク観察の一助となりました。
先ほどは、日本で言う「マニア」に比べ、英米語のmaniaに否定的要素があることを述べましたが、逆に、日本では否定的要素が残るオタク、が英米ではクールなイメージでとらえられていて、日本を訪れた人が尊敬語として日本人に「オタク」を使い、怒らせたという笑い話も聞いています。
オタクという言葉がまだ否定的要素も強いものだということは、例えば雑誌名でも「ファン」や「マニア」は採用しうるが、「オタク」は抵抗感が強く、その例も少ないことからも推察できます。
で、これは、少し前に述べた、「メーカーはどのような消費者像を描いているのか、また消費者が描くメーカー像をどのように理解しているのか」という観点にも関係して、シグマがおもしろい試みをしているのを発見しました。
https://www.sigma-onlineshop.jp/shop/c/c702006/
ここでは「オタク」でなく「おたく」のひらがな表記になっていますが、なるほどこうすると、やさしさというか、ソフトなニュアンスが伝わり、好感がもてますね。
ところでこのレンズおたくTシャツの販売経緯は、ネットで調べると出てきました。シネレンズにおいてシグマとのパートナーシップを持つ米国企業Duclos Lenses社の幹部がシグマ会津工場を訪れた際、その博識に畏敬の念を持ったシグマ社員が「あなたこそがオタクだ」と尊敬をこめて述べたのだそうです。
そう呼ばれたD社幹部、Matthew氏は大喜びし、自社ブランドで発売していたレンズ断面図をあしらったTシャツに、「レンズおたく」のロゴを入れて発売し、それがシグマ社に逆輸入されたのだとか。
オタク視、オタク呼ばわりを嫌うシグマオタクは、複数見てきたのですが、シグマ社がオタク愛を表明していることはなかなか面白いところで、同社の立ち位置を垣間見るところでもあります(^^)v
こんばんは。ほれほれ、ぢーさん、そろそろ落ち着いてきましたか(#^.^#)
さて、kusanagiさん、何一人で投了だの、敗北宣言だの、逃げ腰になってるんですか、そんなことしている場合ぢやないですよ。掲示板は集合知です。オタクに関する考証はまだまだ積み上げていかなければなりません。年齢的にも出口戦略に入りたい気持ちはわかりますが、この話題はまだまだ序の口です。
繰り返し申し上げると、オタクは突然出現したのではなく、もともと存在していたものが顕在化したのであり、その一派にkusanagiさんがオタクとして所属するというのが私の着眼点です\(^o^)/
また、「余暇の昭和史」はそのまま「労働の昭和史」「給与・消費・貯蓄の昭和史」であるわけで、このテーマは継続して検討してゆきたいものです。
ところでkusanagiさんが主張する健康オタク要素については、十分考慮しなければなりませんね。「機材オタクは写真が下手」であっても、誰も困りませんが、「健康オタクが不健康」、ということではしゃれになりませんし、オタク以前に、健康は人生の必要条件です。
で、「カメラをとっさに投げつけられるか」は、これこそ私がkusanagiさんをおちょくるために投げかけた話題であって、機材オタクであり、「おカメラさま、おレンズさま万歳」のkusanagiさんが、ほんとにカメラをぶん投げるなんて発想するわけないこと、ちゃんと知ってますヨ。くけけけけけけけけ。
しかしながら、カメラを投げてどうにか防げる事件でなかったことは確かでしょう。
演説の様子を撮影していたカメラマンが、カメラを投げつけて撃退できるくらいなら、最初から暗殺に至っていません。NHKが撮影した動画を見ると、浅沼さんは、暴漢が駆け寄ってくる様子を不思議そうに眺めており、周囲も何が起こったかわかっていなかった可能性が高いと思います。そして、凶行であると認識した時点で暴漢と浅沼さんの周囲には多くの人が駆け寄っており、この時点でカメラを投げつけても、かえって助けようとしている人の邪魔になる可能性もありますね。
このあたりは沢木耕太郎氏の「テロルの決算」に書かれているかもしれませんが、私は読んでいません。図書館いこう。
命にはかかわりませんでしたが、アイドル歌手として全盛時代にあった松田聖子さんが、コンサートで歌唱中に暴漢に金属工具で殴りつけられるという事件が1983年に発生しています。この当時の歌謡界の慣例として、コンサート中に生放送の番組レポーターが駆けつける、ということが頻繁に行われており、松田聖子さんもそのレポーターが近寄ってきたと思い、危険は感じなかったのだそうです。
(金属工具がマイクに見えたとの説もあり)
ジョン・レノンが殺害された事件からさほど時間が経過していない時期であり、この事件を契機に日本のコンサート会場の警備も強化されていきました。
さて、本日は漫画バナシ。
「なぜ投げつけなかったか」の議論は当時本当にあったようですが、そういう議論は常に起こるものとして、それを引用した漫画が1978年の「ピンぼけ写太」(ビッグ錠)です。残念ながらこの作品は出来がよくなく不人気で、打ち切りとなっています。一方、この襲撃の様子を記録した一枚は、長尾カメラマンが習慣としていた、「フィルムの最後の一枚は残しておく」ことにより使用されたそうで、カメラマンを描いた漫画では、1987年の「スマイル・for・美衣」(里見佳)でこの部分がモチーフとして使用されています。
ただし、主人公が「最後の一枚残し」を使ったのではなく、ライバルがそれを使ってチャンスをものにしたのに対して、主人公はフィルムを使い切っており、咄嗟の判断で巻き上げして、フィルムの先端巻き込み部分と、撮り出し一枚目の間のスペースを使って撮影する、というひねりを加えたものです。フィルム撮影について詳しくない私がこのエピソードを読んでも、撮り出し一枚目の二重露光になってしまう危険があったと思いますが、そこはクリアーしているようです。
こういった少年漫画的なギミックは、デジタルカメラが一般となった現代では難しいかもしれません。「お父さんの形見のフィルムカメラを大事に使う息子(あるいは娘)」という設定が目立つのもその点かも。
なお、レンズを失った戦場カメラマンが、とっさの判断でシャッター幕に針で孔をあけ、長時間露光によりピンホールカメラの要領で撮影を行う、という設定が、「ガルフの鷹」(原作:八城正幸、作画:井上 紀良)で使われました。この漫画は、1991年の湾岸戦争を取材する戦場カメラマンを主人公としています。この原型になる実話があるのかもしれませんが。
また、「カメラを放り投げる」オハナシに戻ると、「カメラトス」というセルフポートレートの撮影技法があるそうです。
https://dc.watch.impress.co.jp/docs/review/omoshiro/577184.html
今となっては、ドローンを使ったほうが安心のようですが・・・
機材オタにはなかなか難しいテクニック。むははははは。
ということで、本日のお題はここまで。
朝日のように爽やかに、ペンタックスな人が行く。
ペンタックスがもともと朝日ならぬ旭光学であったことは一応知っていますが、ペンタックスのカメラの特質については何も知りません。知り合いの中でも、キヤノン、ニコン、ソニーは多いが、そのほかは極端に少ないです。
ごくまれに、シーザー電子やアナハイム・エレクトロニクスに出会います。あと南部インダストリー。
こんにちは。
戦時に乗っていた軍事貨物船を敵潜水艦の魚雷攻撃で沈められ強運にも生き残ったという叔父さんがアサヒでした。
望遠だよ、アサヒだよというCMが流れていたような・・・。
これはペンタックスK-1マーク2でしょうか。
それはよいとして、爽やか・朝日・チューリップ畑に、脂ぎったGさんが登場するのは、何かの放送ミスな
のかもしれません。
カメラ機材各社には社風というか個性があって、不思議とそのカメラを使うユーザーの性格とリンクする
ところがあります。そういうところから言うと、ペンタックスを使うユーザーは良い人が多いです。気さくで
性格の良い人ですかね。
キヤノン・ニコンを使う人はどちらかと言うと、子どもっぽくてわがままな、カッコつける人が多いのですが、
無論メジャーメーカーなので、その社風に関係ない人達も大勢使っておられます。
キヤノンとニコンを比較すると、ニコンにはやや苦労人が多いみたいです。オーソドックスというか保守
的。かたやキヤノンはわりと自由奔放に。
ソニーやオリンパスを使う人は、新しいものが好きというか先進的な考えの人が多そうです。特にオリン
パスはとんがってますかね。個性的で頭のよい人が多いような。ソニーはメジャーメーカーですので、
常識的万人向けにしつらえてますが、ソニーな人はマイウエイなところがありそうです。
(なおオリンパスのカメラはOMデジタルソリューションズ(株)として分離独立をしています)
フジは知的かつ美的でスマートなところがあり、ちょっと気取っている気もしますが頭は良いです。パナソ
ニックは庶民的ですし実用的なところがあり丈夫なイメージがあります。リコーも同じく実用的なパナソニッ
クと同路線でもありますが、ちょっと飛んでいるところもあって、最近はペンタックスブランドを収めてこれ
から飛躍するような気がしてます。
あと何のメーカーがあったっけ。シグマがありましたね。シグマな人はS9000さんのいうところのオタクが
多そうですね。タムロンはペンタックス的な感じで、使うユーザーは善人が多そうな。
ユーザーの中には人気のメジャーメーカーを避けたいという人もいて、反骨精神なのか個性を重んじる人
なのか、それでキヤノン・ニコン・ソニーの完全寡占状態とはならないのですが、これは経済活動において
は大切なことです。寡占独占状態が長く続きますと返って業界のポテンシャルが低下するからです。
ところでこの掲示板でも複数台のカメラを所持したり遍歴する方がおられました。もうそのような方は投稿
をされていませんが、彼らのカメラ履歴にこのペンタックスが入っていたという記憶があまりありません。
大体はキヤノン・ニコン・ソニー・シグマ・フジ・オリンパスといったところでした。
これ、今考えると不思議ですね。ペンタックスは人が良くて平凡な人間のカメラだとして、彼らの眼中には
写らなかったのかも知れません。もしかすればブランド的自意識過剰なユーザーはペンタックスを使わな
い、というテーゼがあるかもしれません。
このペンタックスと俳句を武器にそれらの物量ユーザー達に戦いを挑んだのが、とある方でした。今と
なっては懐かしい出来事ですね。結果として物量でカマしたカメラ嗜好のユーザーはいなくなってしまい、
その戦場となっていたレンズ板は、現在ふつうの板になっています。
ペンタックスのカメラを語るときに、彼のとある方を忘れることはできないのですが、もうひとつ、別の板で
は現在もペンタックスユーザーが盛んに投稿されています。しかしその板でも全く平和だったかというと、
そうでもなくて、かつて我がままなキヤノンユーザーが物議をかもし出したことがありました。
そんなわけでペンタックスな人はただ人が良い人達ではありません。戦う時は戦うすべを知っている人達
です。
キヤノン・ニコンのユーザー達からは格下の詰まらないカメラとみなされているペンタックス。そのペンタッ
クスを自分は使いたい、というユーザーは勇気ある方たちです。
現在、光学式ファインダーのデジタル一眼レフを販売しているメーカーは、キヤノンとニコンとペンタックス
だけになってしまいました。メジャーのキヤノン・ニコンは明らかにミラーレスカメラに眼が向いているわけ
でして、そんな中で我が社はミラーレスカメラはやらないと明言したのがリコーペンタックスです。
持てるリソースを全て一眼レフに注ぐということ。そこで出てきたのがK3M3です。APS-Cカメラながらその
光学ファインダーはフルサイズ並みの大きさです。それは相当な技術と生産力がないとできないんです。
そして投稿された写真を見ても優れた画質です。前のKP辺りから画質がぬきんでて来たのですがさらに
磨きがかかっています。AFも良いようです。
いくらメジャーメーカーと言っても開発力には限界がありますから、ミラーレスばかりに傾注していては、
当然ながらデジイチは疎かになります。まだソニーのように我社はミラーレスしかしないというほうが理に
かなっていますね。二束の草鞋は不利なのです。もしかすればニコンはカメラをやめるかもしれません。
そのニコンの位置に、ミラーレスを出さないと決めたリコーペンタックスが来るのかも。
さてこれからユーザーはミラーレスカメラを文句なく選ぶのか。デジイチなんて古くて最早時代遅れなの
か。しかし未来の予測は、だいたいの人間は的中させることができません。これはユーザーだけでなく
メーカーもそうなんですよ。技術者はEVFの進化でミラーレスはデジイチを駆逐すると考えているようです
が、それは木を見て森を見ずの喩えであって、EVFは進化すればするほど非人間的になり、写真を楽しん
でやりたいという大多数のユーザーからは遠い地点に行き着くことになります。
ミラーレスカメラには良い点もあり、小型ですし、レンズ設計上画質は優れていますし、電子シャッターが
使えてブレも少なく危険な電磁波もでません。
しかし光学ファインダーをなくしてしまったことは、写真における根本的な撮影の本質を失ったことですし、
そしてEVFはどこまで行っても身体に安全とはいえません。プラスもありますが、マイナスも大きいです。
まあ両方使って良いとこ取りをすればよいのですが、少なくともミラーレスカメラがデジイチを完全に駆逐
することはないでしょう。それで一般の素人さんは安価なミラーレス(要はレンズ交換式コンデジ)、そして
極限の撮影をされるプロは高級EVFミラーレスで。(デュアルファインダー式も考えられます) その中間の
アマチュアは光学式デジイチを使うのではないですかね。
みなさまおはようございます。コメントありがとうございます(^^)v
>裏街道さん
そのCMは記憶にないですが、検索してみるとyoutubeで見ることができますね。なかなかユーモラスで楽しいCMです。
CMといえば、CM音楽の巨匠、小林亜星さんが亡くなりました。追悼メッセージを発するCM企業を見ていると、あれもこれもそれも、みんな小林さんか!と驚くところです。個人的には、レナウン娘がいいですね、今は昔のCMとなりましたが・・・
>kusanagiさん
K-1マーク2とは、まるで異種格闘技のような勇ましい機種名ですね。いつごろの機種かすら私は認識していませんが。
たいへん爽やかで、娘さんも含めた家族連れでいらしていた方なので、脱アブラギッシュ、脱オタクをもくろむkusanagiさんとしては、その姿はたいへん参考になりますぞ、くけけけけけ。
オタクと言えば、オタクは現実を認識するのではなく、認識を現実にかぶせるので、kusanagiさんが各メーカーユーザーの気質・傾向を述べておられるのは、kusanagiさんご自身が「こうであってほしい」という想いであろうと理解しています。もっとも、認識を現実にかぶせるのは人間の一般傾向でもありますが。
その文脈を進めて、「複数メーカーをごっちゃに使う機材オタク」の気質について考えてみると、機材オタクは、メーカーごとに想定するユーザー像を、その都度演じているのではないか?と。
その負荷がかかって蓄積されているうちに、写真者としては疲弊していくのではないか?とも。
あくまで仮説ですが、こうして観察するとオタク論も楽しく膨らむものです(^^)v
疲弊した結果、楽しくなくなってしまう人も多いと思うのですが、疲弊は休息や転回によって快復もできるので、オタク・コントロールというのも大事だと思っています。
>「複数メーカーをごっちゃに使う機材オタク」の気質・・・という視点にはなるほどーと思わされ、こちらも
新たなインスピレーションが湧いて参りました。
>何らかの負荷がかかって蓄積されているうちに、写真者としては疲弊していくのではないか?・・という
くだりも実に鋭いです。私にはそういう考えがまるでなかったからです。
光派メジャー・・・キヤノン、ニコン (強い陽)
光派マイナー・・・ペンタックス、オリンパス (やや弱い陽)
色派・・・ソニー、フジ、ツァイス (光が物質化したようなイメージ)
陰派・・・シグマ、ライカ、パナソニック (強い物質感、シグマ以外はやや付けたし)
各メーカーを陰陽理論でまとめるとこんなイメージでしょうか。上から強い陽で次第に陰の世界へと向かう
わけです。占星術的に申しますと、光派の陽は獅子座でイメージされます。事実、ニコンとキヤノンの設立
日は獅子座でありユーザーにもキング・王者のイメージがあります。
それと余談ながら、ニコンとキヤノンの設立日に近い前後10日ほどに生まれたユーザーは、この2つの
メーカーのカメラに思い入れ過ぎないないほうがよいですかね。不利益を受けてしまいますから。さらに
ちょうど半年差の水瓶座に生まれた人もです。高級機材を使っているユーザーは特に。他のカメラでは
そのようなことは起きないとおもいます。これは特別です。
そしてS9000理論で行くと、キヤノン・ニコンという強い陽は、シグマの陰とは真逆の位置にいるということ
になりますか。
この板にもシグマユーザーが健在でして投稿をされておられますが、だいたいはシグマのカメラのみか、
もしくは同じ陰派のカメラを使っておられますね。
そして私の感想としては、キヤノンやニコンをメインカメラとして、同時にシグマも使いたい、という投稿者
が疲弊されたという気がしています。この私もシグマを使っていた時期がありました。本来はキヤノンや
ニコンのユーザーである人間がシグマを使ったとき、どういうことが起きるのか。それをつぶさに実体験を
してしまったというところがありましたね。私が現在でもシグマの高画素機を恐れるのはそういう失敗談が
あるからです。
この掲示板で人気なのはやはり陽派ですかね。それでキヤノン板やMN研は投稿が多いですし、コメント
も多くみられます。しかしながらその人気というものはこの掲示板の常連投稿者同士間の人気ですね。
実は隠れた人気の板がありまして、それは陰派の最たるシグマのカメラの写真を投稿する板です。その
人気の出所は、たぶん太陽系外からくるようです。(笑)
キヤノンとニコンの人気はあくまでも太陽系内の人気ですが、シグマだけは違います。訪問者は外宇宙か
ら来るようです。つまりこの掲示板には常連投稿者として数十名いるとして、それが太陽系内住人です
ね。しかしその100倍の視聴者がいるのですが、彼らは言わば外宇宙の方たちかもしれません。
私のコメントの立場として、基本的に内宇宙の住人ではなく外宇宙の人達を念頭に置いてやっているん
んです。それで私が内宇宙の投稿者を批評して、そのキックバックで内宇宙住人が捨てハンで攻撃を
してきます。さらに外宇宙の方々が匿名で私をバックアップをしてくれるという形態に今はなっているよう
な気がしています。太陽系内宇宙は村の住人であり、外宇宙の視聴者は外部のよそ者かも知れません
が、やはり多数派ですね。
太陽系内の村人で仲良くやっていればよいのかも知れませんが、それでは掲示板経営は成り立ちません
し、写真としても退化していきます。私が外部の眼からの批評眼で論ずるのはそういう懸念があるから
です。
話を戻しますと、陽派のキヤノン・ニコンのユーザーが陰派のシグマが気になるというのは、それは写真
やカメラ好きとして当然の好奇心かもしれません。陰陽を同時に征してこその写真であると考えるので
しょうね。
一般のキヤノンのユーザー、例えばS9000さんのようなユーザーにはシグマに関心はないと思いますが、
シグマには圧倒的な解像力と立体的な物質感があるんです。それは飛びぬけていて、写真の光を征した
ユーザーが次には物質感も得てみたいと考えるのは機材オタクとしては当然の欲望かもしれませんね。
しかしこれを無用心にやりますとそのあまりにもの激しい陰陽の落差に人間が参っちゃうというところが
あるのかもしれません。
私の場合だとシグマの高画素機をキヤノンのように連写可能のように改造して、それは本来の陰性を
逸脱して陽性のカメラとして使ってしまったという過ちがあったからだと考えてますが、とにかく激しい陰陽
の落差と対立はユーザーにとっては大変なストレスとなり疲弊していくのではないかということです。
シグマの超高画素高画質のカメラは極めて危険であり用心すべきなのですが、そのカメラしか使っていな
い場合だと次第にこのシグマの使い方が分かってくるというものです。ですからシグマのみのユーザーは
生き残れているのではないですか。シグマのペースに自分を慣らしているわけです。
ところが本来は陽カメラのユーザーがシグマを使うとなると、スローペースに我慢ができなくなって暴走を
してしまう、そんなところではないですかね。本来シグマのカメラの情報量は圧倒的であって、シンプルな
情報量しかないキヤノンニコンにようにして使うべきではないカメラなんです。
キヤノンやニコン、ソニーなんかでも超高画素機はあります。しかし使ってみて感じるのはシグマに比べ
れば、その情報量(とくに垂直情報)は大したことがなく、やはりシグマ高画素機は別格なんです。
シグマの高画素機の画質という情報量は圧倒的であり、それに合わせたシグマなりの使い方があるので
あって、それとシンプルなキヤノンやニコンと同じような使い方をしてはいけないのだ、ということなんで
しょう。
私は現在、撮った写真は見ない(笑)という極端路線を歩んでいますが、膨大なショット数を稼いでもその
画像をモニターでみなければ、少量しか撮っていないというのと同じなのです。
高速連写機で多量撮影をするのは典型的な陽派のキヤノンユーザーですね。しかし陰派のシグマは
撮影は極めて少なくあるべきなんです。
今回は写真とカメラに陰陽理論を持ち込んでみましたが、ある意味でシグマの高画素機は悪者になって
しまいましたかね。しかしシグマのカメラは極めて優れていて、写真を陰性的に物質感として捉えるのに
は最適なカメラです。被写体を最重視するのであればやはりシグマに勝るカメラはありません。シグマば
かり見ていると、キヤノンやニコンのカメラは写真としてユーザーの独りよがりなパフォーマンスに過ぎな
いとすら思えてきますから。
ところで、写真とはモノなのかどうか。私の答えとしては撮影しPC上で展開するまでがモノではない純粋
な写真行為であり、そして投稿するなどして外部に晒された時点で写真はモノ化すると考えています。
モノ化する以前の写真行為はあくまでも精神的な写真行為であり、それは全きに自分のものであって、
そして画像化され露出した時点で写真は物質化して既に自分のものではなくなっていると考えています。
しかしながら写真は物質化して露出しないと他者には伝わりません。ですから写真を投稿することには
意義があるということです。
それで陰性のシグマのカメラはモノ化した写真としては最高のものだろうという気がしてます。写真がモノ
化してもリアルさを失わない写真はシグマ以外では難しいのではないかと考えています。
それで太陽系外からこの掲示板を訪れる視聴者がシグマの写真が気になるというのはうなづけるところ
があります。
今回はシグマというもので写真機材の疲弊を論じましたが、写真ユーザーが疲弊するのはカメラの画質
ばかりではありません。それはモニタースクリーンもそうですね。4Kモニターとか、カメラのEVFもユーザー
の疲弊を大きく招いています。オタクだとそういう方面の機材に関しても造詣がなければなりません。
ところでオタクは本来リアル型の人間ですね。理念というイデアが現実のリアルに勝るという考え方はしな
いものです。そのリアルから導き出したイデアがもし現実にそぐわないとすればすぐさま変えればよいだけのことです。
写真によって疲弊したと感じれば写真はしはらくは止めるべきですし、また考え方ややり方を変えてみる
わけですね。しかしあまりにも疲弊しすぎたユーザーは、もう写真はこりごり、という場合も多くあると思い
ますね。
中庸という言葉がありますか。これは本来仏教で言われている言葉かもしれませんが、最終的には物事
は真ん中辺りに行き着くというわけです。最近ではハイブリッドという言葉もありますか。たとえばキヤノン
のカメラに、シグマやタムロンのレンズを着ける。そういう感じです。(笑)
私はキヤノンにシグマ、タムロンのレンズを着けて撮影するのが好きなのですが、これはやはり陽性過ぎ
るのを抑えるという心理効果があるんじゃないかと思っています。
まあシグマのレンズをキヤノンに着けたところで、シグマのフォビオンカメラに近づくわけではないのです
がね。
この掲示板で以前活躍されていて、今は遠ざかっておられる方々、可能ならばバージョンアップして再登
場してくれればと思っていますが、それはなかなか難しいでしょうね。掲示板は一期一会というところが
ありますし、それに人は自分を変えていくことが難しい生き物です。
S9000流に言いますとオタク人種のみが自分を変えて時代を乗り越えられるようです。(笑)
それからもうひとつ、写真で疲弊するのは過剰に気負いたってしまうからですね。それはカメラとしては
陽派の性(さが)です。頑張って人に負けないとしてパワーを掛けてしまうから。しかし陰性のカメラとして
はその気負い立ちこそが間違っているということになります。キヤノンやニコンのユーザーがシグマの
カメラを使って多くの投稿写真を上げてくれていますが、みな素晴らしい写真ばかりです。しかしその頑張
り過ぎが、長く写真を続けることにおいて間違っていたということかもしれません。
頑張って写真を続けることは良いことだ。機材趣味よりも写真を生み出すことが大事だ、傑作を生み出す
ことが善である。とかいうのは案外に狭い考え方なのかもしれません。写真は頑張らなくてもいいのです
し、ゆるゆると気が向くままにやっていくというのも写真の考え方です。頑張りは必要がないのです。それ
は陽派の考え方であって陰派の考え方ではありませんから。
こんばんは。コメントありがとうございます(^^)v
なるほど、ゆるゆると気が向くままにやっていくというのも確かに考え方ですね。そしてkusanagiさんはそれが実践できてはいませんね(密笑)「機材オタク」というフレーズを使うと、kusanagiさんが召喚されて、くるくるくるくると無際限・無定量に回ってくれるので、ある意味、掲示板の醍醐味として皆さんに活用いただきたいものです(^^)v
さて、機材オタクの中でも、純粋なコレクターならば、長期的に穏やかな、「ゆるゆると気が向くまま」の活動が困難でない、と思います。ところがぎっちょん、そういう人は機材オタクにおいておそらく少数派で、同時並行に複数メーカーの機材を使う、あるいは短期間に主要機材を異なるメーカー製に入れ替えることを繰り返し、膨大な評論を展開する(が、しばしば評論内容に自己矛盾を抱え込む)、というタイプの機材オタクを写真分野に限らず、多数見てきました。そうしたタイプは疲弊を急激に蓄積し、早期にその趣味から去っていくという傾向が顕著です。この疲弊の正体は、「肥大化したオタクとしての自己像(しばしば未来像ないし理想像)にそのオタク自身が飲み込まれてしまう」ことのようで、そうした疲弊を適切な範囲に管理する概念が「オタク・コントロール」であり、つまるところ、オタクとその対象物との距離感のコントロールはたいへん重要です。
疲弊を抱える機材オタクは、ご自身と機材の距離感が適切に保てておらず、これがカメラ機材オタクであれば、「各メーカーのユーザー像を演じる」、平たく言えば「機材に使われている」状況だということです。私も専門家ではないですけど、俳優にも職業病として演技上の人格と自分自身の人格が区別できなくなる病理が存在するそうで、オタクものめりこみすぎるとそれに近いことが起きるように思います。
オタクは認識の投射方法を変更(あるいは偏向)することはできても、自己改革は得意としませんので、得意な方法で対処するしかないわけです。
一番簡単な「オタク・コントロール」のひとつは、どんなに思い入れのある機材でも「あんたが作ったわけぢやない」ことを理解すること、かな。例えばカメラでいえば、それがキヤノンでもニコンでもいいのですが、どれほど惚れこもうとも、「ただ買っただけの立場でしょ」という現実を理解することでしょう(^^)v
これ言うと、たいがいの機材オタクは激怒します。中には「買ったからにはユーザーとしての責任がある、ユーザーの評論がどれほどの人々に影響を与えていることか、その社会的責任を軽視してはならない!」と豪語する人も出てきますね。
かといって、「カメラは私の創造物ではないが、写真作品は私の創造物だ」という撮影オタク方向にふりすぎた、短絡的な発想もぶっぶーです。写真作品において、撮影者の創造性が占める要素は、機材オタクが軽視するほど低くはないですが、撮影オタクが重視するほど高くもないはずです。
さはさりながら、どのメーカーも、購買層として期待する人物像をイメージしているし、また自社製品、自社イメージについて購買者がどのようなものを期待しているのか、も理解しようと努めているわけで、ユーザー側もそこを楽しむ、という切り口は、機材オタクでなくてもとても魅力的なコンテンツです。
例えば、アサヒビールは、ヒットを通り越してブームに至った「スーパードライ」において、一定の消費者像、特にヘビーユーザーを想定して、「俺様が飲むにふさわしいビール」という商品設定に腐心したそうです。この点で、水着キャンギャルを多用した他社よりも、落合信彦氏をキャラクターに選んだアサヒビールが、オヂサン層のプライドをうまくくすぐっており、また、その愛飲者イメージを構築した後は、各界のプロフェッショナルを次々起用し、陳腐化を防ぐことにも成功しています。1980年代末から1990年代を通して、人々はこの戦略に見事にはまり、「俺様が選んだスーパードライ」と思って愛飲しながら、実は「畏くもスーパードライビールを下し賜えりアサヒビール様を忠心より遥拝いたしまするぅ」という構図にはまってしまっています。
ちなみにスーパードライは私も大好きです(^^)v庶民の味バンザイ。
脱線しました(>_<)
ところで、kusanagiさんの言われるのとは別の「機材オタク擁護論」は私も考えているので、それはまた別項で。
カメラ・レンズ業界で、この、メーカーの期待する消費者像、またメーカーが思う、ユーザーが期待するメーカー像、商品イメージというものが、うまく機能しているところがどの社なのかは私は把握していないです。なんとなくわかるのは、ニコンやキヤノンのようにラインナップの層が厚い社は、製品のヒエラルキーというか序列を厳守しなければならないので、値段からすれば反則のような機能、性能をもつ革新的な機種を開発するのは風土的に難しくなっているように思います。
もちろん最新の高級機では革新的な性能や機能を付加してくるのですが、それは当たり前のことに思えます。
写真ではない他の分野で、「こんな製品は業界の仁義に反する」というほどの革新的な製品(ただし故障率が異様に高かった)を見たことがありますが、これが強いて言えば、シグマのカメラのそれに似ていたように記憶しています。
シグマ板 https://photoxp.jp/pictures/215631
ここの2番投稿に、シグマカメラのブランド性とはどういうことであったのか、が私の意見として書かれて
います。
>シグマのカメラの製品として共通に言えることなのですが、不完全な製品でもまずは出してみる。(笑
そして次期モデルで解決をして、そしてまた新しいことに挑戦をして未完成でも出してみる。
こういうのが特徴ではありませんか。キヤノンとかニコンのようなメジャーメーカーであれば絶対にシグマ
のカメラもフォビオンも世に出てくることはなかったでしょう。
こういうやり方は実はデジタル時代のやり方なんですね。とにかく何でも良いから閃いたら製品として
出してみようじゃないか。そういう新時代の考え方でやってしまったところがあります。
これは2000年以降のデジタル時代の新しいやり方であって、シグマは旧時代のしがらみがありません
でしたから思い切ってやれたわけです。これはカメラ業界に於いてだけでなく、ICT産業全般でで言えた
ことでして、それで過去の成功体験が強すぎた日本は、米・中・台・韓にしてやられました。
シグマ搭載のセンサーは米国開発のものでしたので、やはり考え方か米国的でした。シグマのフォビオン
センサー搭載カメラは、多くの先進的なデジタル愛好者に喝采を受けたわけです。そういうわけでシグマ
は新しいデジタル化したカメラ時代の新ブランドとなったわけです。ソニーならばまだしも小さなレンズ
メーカーに過ぎないシグマがこれほどに世界に脚光を受けるとは、カメラ進出が夢だった創業者も思いも
よらなかったことでしょう。
機材で疲弊するユーザーはその機材の多さで疲弊するのではなく、本質的には新しい時代の技術という
ものを知らずに深みに入りすぎたわけでして、やはり知識とスキル不足が原因です。写真や従来カメラの
ことは知っていても、ITの知識が圧倒的に不足しています。今のカメラは、カメラではなくコンピューター
です。写真は絵ではなく情報工学です。それが根本的に理解できていないとやっていけないんですね。
今の写真ユーザーは大体はフィルム時代からのユーザーが多く、デジタル時代からのユーザーは少ない
と思えます。年齢からみて、そうですね。じゃあスマホ世代のようなデジタル新時代の若い人が多くなると
時代が変わるのかといいますと、今度は新たにデジタル時代の劣化問題が出てきてそうはうまくいきませ
ん。何やかんやで当分はどうしようもないね、というところでしょうか。(笑)
問題は時代ではなく個人です。個人の素質で時代とは関係なく自らを高めていく人だけが生き残るという
ことになりそうです。どんな劣悪な時代においても個人的には必ず例外があり、個体異常的に度を抜いた
個人が存在するのです。そういう個人が次の次の・・・新しい時代への継承をしていくのであり、それが
歴史というものです。どんな劣悪な時代を経ても人類が滅ばないのは、そういう抜きん出た個人がいつの
時代にもいるからですね。これが生物進化の法則ですし人類の歴史の真実です。
デジタル写真という時代は、本当にこれから本番であって、本格的にデジタル化していきます。これまで
は半分はアナログな写真時代だったわけですから。しかしこれからが真性のデジタル写真時代が波及
していくことになります。それに耐えられるユーザーがいるのかどうか。赤信号、全員疲弊で怖くない。と
いう時代が既に到来しつつあります。
私の場合は機材オタクというよりもコレクターだと思いますよ。それであまりモノ自体には思い入れは
ないんです。手荒に扱いますし平気で改造はしますしね。所有している機材が多すぎるので全部把握
できてませんし、買ったものの未使用のものは多くあります。なので愛着というものはあんまりないです。
機材オタクはモノ愛が強いと思うので、そこらは私は情感オタク派ではないと思います。
ですから、機材を使わなければ(元が取れない)、という脅迫観念もないですし、買って失敗したという
残念感もさほどありません。
最近ではKD50Xで失敗?しましたね。通常のKDと違いバッファ撮影枚数とメディア書き込みが劣り、そし
て、漏洩電磁波が強すぎました。ほぼ電磁波的に無対策品です。
KDは初代、2代目のKN、3代目のKXと所持してますが、2・3代目の電磁波がレベル5だとしましょうか。
ところがKD50Xは15~20に跳ね上がります。これはどういうことかと言いますと、レベル5のカメラが10万
回シャッター作動で積算される総被爆量が、3万回ほどで達成されるということです。
これ、S9000さんの奥様が使っているわけですが、私は非感情派のオタクなので、しれーと言いますけ
どね。(^^ゞ しかしこれによってメーカーというのはコスト的に電磁波コントロールをしているのが分かりま
す。他のメーカーの製品でもそのような事例がありましたので、メーカーというものは電磁波の害を知りな
がら、いや知っているからこそ、コストとスペックで巧妙に使い分けているということです。
どういうことかと言いますと、バッファと書き込みが劣ればそのカメラでは、ユーザーはあまり撮影をしま
せん。KD50Xの場合だと1/3の撮影量でカメラは終了(廃品)するのです。結論としてトータルでは被ばく
線量は、対策済みの製品のユーザーと同じであるから合格だ。という思考法です。と言いますか電磁波
関係の規制ではそのような考えで行くようになっているんです。
さほど廉価ではなかったろうKD50XがなぜスタンダードなKDと比較して電磁波対策をしなかったのかは、
ボディカラーへのコスト高が原因として挙げられるでしょう。細かなパーツまで配色されていて、これは
コストがかかっているねえという感じです。要するに色はただではないのだ、ということです。
このカメラ、実はS9000さんの奥さんの為に購入したというところが半分あります。問題がなければ今回
の助言は不要でした。
高電磁波カメラの使い方は、基本、顔面頭部への被爆を避けるためにライブビュー撮影でいきます。カメ
ラを持つ手は被爆しても脳への影響はなくなりますから。もしくは光学ファインダーを見る場合は、シャッ
ターを押す直前に、カメラを顔面から遠ざけてからシャッターを切ることです。20~30センチ離せば十分で
す。電磁波は距離の2乗分の一(反比例)で減衰していきますらね。私はデジイチのカメラはほぼそのよう
なスタイルで撮影していますから。(笑) 慣れればどおってことはありません。
なお、電磁波の害に関してはご自分で学んでいただくということで割愛します。
おはようございまっす(^^)v コメントさんくすです。
ふむ、コレクター。コレクターねえ・・・
コレクターは、モノの造形や意匠、感触を重視して収集し、その機能・特性には着目しない傾向があると感じています。もちろん、コレクターもオタク世界の一員ですから、「オタクの様式美」が存在し、陳列の方法、手入れ(メカ的な意味ではない)、その他行儀作法があります。というわけで、彼らの礼儀の基本は「触っていいですか」(^^)v触るにしても、白布を口にくわえて吐息がモノにかかるのを防ぎ、指紋をつけないために白手袋を・・・。
そこまでいかなくても、「モノとしてのカメラ」のコレクターがこの掲示板に乏しいと感じるのは、カメラコレクションを撮影した作例があまり見当たらないところです。むしろ、この掲示板でコレクション的な神棚風写真がアップされたら、「カメラの写真よりもそのカメラで撮った写真が見たい」というリクエストが相次ぐかもしれません。むふふふふふ。
カメラではないが、あるコレクター氏の所蔵品の中に、私が使っていた製品を見つけて、思い出やその評価(好意的な方向だったが)を説明したところ、コレクター氏は「そんな情報は必要ない」と不機嫌になってしまいました。「モノ」に関するコレクター系のオタクではないため、「モノ言わぬモノ」を黙って見ているのも楽しいとは思わない私ですが、それもひとつの世界観ということで。
残念なことに、オタクの気質上、「相互に仲良しのオタク分野」というのは成立しにくいです。脱線しますが、野鳥趣味の世界でも、撮影派・観察派・録音派で軋轢があるようで、デジスコ・ドットコムで松田道生氏がコラムに書いています。そしてそれは入門者(例えば私)にとって、ひとつのハードルですが、オタク世界は複数経験済みなので、こんなもんだと割り切っています(^^)v
ということで、kusanagiさんについてはあらためてめでたく機材オタク認定、ポン!(←認定印を押す音)
そんなもんに勝手に認定すな!なんて、無粋なこと言っちゃだめですヨ、私は「オタクのオタク」にして、失礼な田舎のぢぢぃなのですから(爆)
とはいえ、kusanagiさんご本人がベースでもエミッターでもなく、コレクターだと主張するのならそれも尊重してあげなくちやいけませんネ。そして、X50をわざわざ購入されるという篤志家で人情家な一面もお持ちです。(K50Dと言われたので最初、ペンタックスかと思って読み捨てましたが笑)
KISS系は電磁漏洩が強いということは、つまり電磁遮蔽が弱いということで、確か田中美希男さんだったか、高電磁波環境でカメラを使ったところ、1D系は正常動作したが、KISSは動作不良に陥ったことを報告されていました。見るからに小さく軽いカメラなので、そのへんは当然弱いでしょうね。投稿「十年愛」 https://photoxp.jp/pictures/216696 に書いたように、ショット数は10年で10万強なので、過大な使用数ではないと思います。バッファが弱いというのも実感していますね、そのために連写を嫌うところもあります。私の70Dが、七年半経過の現時点で18万ショットに達しているため、同じ10年の区切りに至ったときはかみさんのショット数の2.5倍くらいに達しそうですが、夫婦そろって、ここはひとつ、「ツラノカワガアツイ」ことが有利になってほしいものです(爆)
そこは冗談として、私が知る限り、デジタル一眼レフの電磁波による健康被害は、有意な統計結果がないのですが、それすなわち安全が保証されているという意味でないことも知っています。そもそも撮影に伴う危険は他にも交通事故、転落事故、スズメバチ、マムシ、熊、おいはぎ、ぢーさんの出没、などいろいろあることも知っています(^_^)v 過剰な没入は危険かつ撮影結果にも悪影響を及ぼします。幸い、最近の我が家では、撮影枚数はやや落ち着き気味であります(^^)v人間ドック、脳ドックもその方面での異常はなし。(私はメタボだが)
それにしても、シグマ教、シグマ信者、シグマオタクというのはいるものなのですね。悪口言っているわけぢやないですヨ、シグマ社の内田亮氏は、赤瀬川原平氏著書「カメラがほしい」にもインタビュー対象として登場しますが、1985年時点の見解として、「我が社のレンズを解像度チャートでテストして酷評するチャート教信者が存在する、だからその評価が流通して彼らが排撃する前に、一定ロットを売り切ってしまうのだ」と独自戦略を述べておられます。チャート教、とは、評価に使われるテストチャートが「曼荼羅」に似ている様子から赤瀬川氏が連想し、内田氏との会話が弾む中で命名されたもの。1980年代なら、レンズもカメラも、テストレポートが流通するのは雑誌かせいぜい同人誌でしたから、この戦略は慧眼でしょう。それから三十数年後、やたらと高速に情報が流通するネット社会において、チャート教どころかシグマ教の信者が存在する状況は、たいへん興味深いものです。
その一方で、チャート教信者も健在なのかもしれませんが、もちろんそれを排撃すべきものでもなく、おおいなるオタク世界の構成要素であることは間違いありません。
オタク・・・。オタクこそが次代の新しい文化を開く存在なのですから。
S9000さん、なかなかに喰らい付いてきて餌を離そうとしませんが(笑)、オタクとはそういうものかのかと
思うところがあり、つまり中途半端で諦めないというのは、今の時代に於いては大変な能力であり長所と
なっています。真実の扉を開けるには粘り強さが必要ですね。
ところでK50Dではなくて、イオスKDX50ですか。Xの位置が間違いましたね。(笑) それと通称キスデジの
ことをKDと言うようです。どうやらKDX50はKDXシリーズの50番という意味でしょうか。
私がコレクターだと自称したのは単純に自己所持する機材を把握できていないからです。だいたいざっく
ばらんでやってますから。
高電磁波環境で1D系は正常動作したがKISSは動作不良というのは、電子基盤のシールド(防御)が不
十分だったことが原因であり、いっぽうカメラが発する漏洩電磁波は主にDCモーターから出ています。
このモーターによってミラーやシッターをチャージ(巻く)するんですね。つまり昔で言えばモータードライブ
ですか。
漏洩電磁波のことを言うと、70Dと1DXはレベル3ぐらいだったかな。通常のKDよりも低いのです。これは
モーターが発する電磁波を遮断しコントロールできているということです。70Dと1DXを比べればミラーやシャッター機構がAPS-Cとフルサイズの違いがあり、しかも動作スピードも違うので如何に1DXが優れて
いるかが分かります。masaさんが盛んに使われているカメラですが極めて優秀で安全性が高いのが分か
ります。それを言えば70DはS9000さんが使っていて多量に撮影をこなしていますね。このカメラも優秀な
のですよ。
高電磁波環境というのは例えば米海軍空母とか戦闘機内というのがあります。以前雑誌の記事でそう
いう環境下ではキヤノンとニコンの高級機が相応しいというのがありました。きっと宇宙でもそうでしょう。
ここらは防塵防滴性能と同じで伝統の機種が信頼できます。
それにしてもS9000さんは多量に撮影をしていますね。驚きです。しかし奥さんはそんなことはないと
思いますよ。実際は2万から3万ショットでしょう。(笑) それで心配はしていないのですが、こういうことも
あるんだよっていうことを伝えたかっただけですね。最近はスマホのほうが遥かに問題は深刻です。
KDX50で気に入ったのは前モデルより大きく握りやすいこと。(さらに自作グリップ着けてます) そして
シャッター音が大きくて撮影した気分がでること。
シグマというのは実は技術的にいって別格なカメラなんですよ。それは普通のカメラはカラーフィルターを
センサーに張りつけて、そのフィルター(3色です)を通したカラー画像データとなっています。しかしシグマ
のカメラはカラーフィルター自体が存在しません。センサーそのもので3色分解をしているんです。
人間の眼は普通のカメラと同じようにカラーフィルター細胞がありそれを通過はた信号を脳に送っていま
す。そんなわけでシグマの写真は他のカメラのものとは異質なものとして写るのでしょう。写真ではなく
実際の物を見ているような感じでしょうか。しかしながらフィルム時代全てのカメラはシグマ的だったんで
すね。フィルム写真は物でした。今のデジタル写真は情報データです。(これも厳密にはモノだけど)
もっと簡便に言うと、普通のカメラはデジタル的。シグマとフィルム写真はアナログ的です。陰陽理論より
もこのほうがイメージを掴みやすいでしょうかね。奥深いのはアナログ写真でしょう。デジタルはスピードで
簡易ですから。シグマ教、シグマ信者、シグマオタクというのは、単にデジタル派がかってに付けただけで
本当のシグマユーザーはシグマやフィルム写真が本当の写真であって、デジタル写真は代用食や代用
酒で満足している軽いユーザーということになるのかもしれません。
キヤノンユーザーがシグマを使って使い切れなかったとか、頑張ったのだけど残念ながら疲弊したという
のは、その作動させるPCがパワー不足というのがかなりあると感じています。基本は自作の強力なPCで
なければ難しいところがありますね。パワー不足のPCだとストレスが大きいです。
普通のユーザーは市販品のPCで市販のソフトで、それをマニュアルどおりに使って、それで自分は写真
を創造したと思うわけですが、シグマはそれでは難しいです。昔のフィルム時代の自家現像と同じような
創意工夫が求められます。自分あったオリジナルなやり方(ハードウェア的にもソフトウェア的にも)をして
いかないと難しいようです。
私も昔はフィルムで撮影し、それをスキャンニングしてやってましたので、それを思えばシグマはデジタル
カメラなので格段に容易です。要するに今の写真は、スピーディゆえに簡易になりすぎたのではないです
かね。どうしても撮りすぎてしまうのではないですか。
それからこれはどうしても言っておきたいのですが、キヤノンユーザーがシグマに挑戦をして疲弊したとい
うのは話の流れ上書いただけで、真実は彼らは写真を゛十分に極めたということだと思っています。それ
で掲示板を卒業されたんですね。
今回S9000さんに触発されて、キヤノンやニコンのユーザーからは最も遠いシグマというカメラを使うこと。
それがどんなに大変だったかを考えることができました。何から何まで真反対のカメラを使うことは極めて
難しいです。私の今は両機種を使っていますが、ここまでくるのに3年くらいかかってます。
そして基本ベースはシグマとしています。ゆっくりのっそりと、そして撮りすぎないこと、写真を見過ぎない
ことですか。そして本当に自分が撮りたいと思うものだけ撮影すればよいんです。写真は自分のための
写真であるべきですね。
オタクには、アタマオタクと、手足も動かすオタクと両方生息しているんではないですか。レンズチャート
曼荼羅で一喜一憂するのはアタマオタクでしょう。手足オタクは自分でレンズを買ってみて使って評価し
ますから。とうぜんオタマジャクシよりはテアシカエルのほうが進歩した状態です。(笑)
理念オタク、イデアオタクと、現実オタク、リアルオタクでもいいですね。ふつう後者の方をマニアと言いま
すね。
>が顕在化した時期と、「余暇の昭和史」が終焉した時期は一致しており、「人と同じモノがほしい」から
「人と違うモノがほしい」という価値観の展開が図られ、、、
・・・ここらば順当な見地かと思います。占星術的に言えば地象宮時代から風象宮時代への変遷です。
>のオタク像が、ひきこもりやパラサイトシングルといった、働かない、家族経営をしない若者像、、、
・・・S9000さんがオタクイメージ刷新の努力をされているのはよく理解できますが、世間的にはまだま
だマイナスのイメージを払拭できていないと感じます。それにしても悪いイメージが付いてしまった言葉を
どうして今も使っているのかが不思議でしようがないですけど、他にピッタリとした言葉がないのかもしれ
ませんね。そういう意味でもオタクとは今や時代の混沌を表す象徴的な言葉となっていて、そのオタクと
いう言葉が広まることで世の中をますます混沌へと向かわせているような気がしています。どうやら今の
日本の閉塞感を表すのはオタク化現象という言葉かもしれません。
最近台湾でオードリー・タンというオタク的な人物が脚光を浴びていますが、なんか不自然な気がするの
は私だけなのかな。(今彼に関する自伝を読んでますが)
私が思うに、今の若い人がオタク的に些細な個人趣味に生きざるを得ないのは、何もオタク精神などとい
うものがそうさせるのではなくて、単に所得が低くなって貧しくなったり、社会的な地位が低下しただけなのだと思います。それで不本意ながら逃避行動をしているだけでしょう。
特に2000年に入って非正規雇用が合法化され労働者は使い捨てされるようになりました。それで愛社心
も持てず仕事を通じての社会参加意識や、また本来自信となるべきはずの仕事から得られた知識や
技術も持てずで、当然に雇用も不安定です。コロナ禍でさらにですね。そして依然として彼ら被雇用者の
所得や福利厚生も厳しい状況が続いています。
これらは所得格差という社会的な(世界的でもある)問題なのであって、社会全体で政治や経済から変え
ていかなければならない問題ですね。とにかく若い人を汚濁の混沌に捨て置いていてはダメで、彼ら彼女
らが子ともを産み育てなければ間違いなく日本の国は消滅していきます。
これからの20年、政治的に世の中を変えていこうという方向に多少は向くのじゃないかなって考えてます。
それは脱オタク化ですかね。もしくはオタクの社会化政治化でしょうか。優秀な人は金を儲けて日本を捨
て何処へでもいけますが、ほとんどの人はこの日本で頑張るしかないわけです。これに気が付くのはまだ
まだ時間が掛かるかもしれませんが、やがてそうなるでしょう。
今度のコロナンピックが日本でのまとまった最後のお祭りになるかもしれません。それと第3次世界大戦
は遺伝子戦争になるのがはっきりと見えてきましたね。ゲノムウォーですか。それは既に始まっているの
でしょうか。これは有無を言わせない国民皆兵であり国家総力戦です。無論憲法9条では防げません。
核兵器は核の冬をもたらしたり、放射線被爆が長期にわたることから、結局使えない兵器となったわけで
すが(米ソ冷戦時代)、ゲノムウォーはきっちり使える兵器となっています。
このゲノムウォーにおいても鍵を握るのは、やはり若い人達や子供たちです。
「キヤノンの一眼レフのショット数(シャッター回数)の調べ方」
https://www.salaryman-butuyoku.com/butuyoku/4123/
これでシャッター数が分かるのではないですか? 既にユニットを交換しているのでカウントをゼロに戻さ
れたかもしれませんが。
良く考えてみると年間ショット数、1万回というのは月に直すと830ショット、月に3回撮影をするとすれば、
1回当たり280ショットか。まあ、こんなもんですかね。なるほど、10年となると積み重なるもんですね。
電磁波被爆は身体の免疫力を押し下げます。今回のパンデミックで移動通信技術5Gとの関連のフェイク
ニュースが流れましたが、それは無意識的に多くの人々が関連性に気が付いたからでしょう。
私の場合、毎年1-2月に必ず風邪を引いていたのですが、ここ3年は一度も風邪を引くことがなくなって
います。それはミラーレスカメラを導入して以降ですね。ソニーのミラーレスカメラで本格的に電子シャッ
ター撮影、そして背面液晶視で撮影をするようになってからのようです。それを機に、デジイチの撮影も
リモート撮影(笑)にしましたからね。
キヤノンとシグマの画質の違いよりも、カメラとしてはデジイチとミラーレスの差のほうが圧倒的に大きい
のであって、もし複数のカメラを得られるであればミラーレスカメラの導入を進めます。
新型コロナウィルスは人為的な遺伝子改変が見られ普通の風邪のウイルスとは違うようです。遺伝子的
に不安定要因があり、変異株も出やすいですし、罹患すれば後遺症に苦しむ危険性が高いですね。
コロナに罹らない、罹っても撲滅できる強健な免疫力の獲得が望まれます。それに最も近道なのが生活
労働環境下における電磁波被爆を低減させることでしょう。またVDT症候群も可視光線という光の電磁波
による脳内障害とみることができます。これも気をつけないといけません。
電磁波は積算効果ですので、安全だとい言われる低い数値のカメラでも短期的に数多くショットすれば
積算されて行くのであり、閾値を超えれば危険水域に達します。また今現在太陽活動が低下しています
ので、気候変動だけでなく疫病も流行する環境下にありますね。これらも一種の放射線(宇宙線)の悪影
響です。太陽活動のサイクルは100年であり現在は最低の位置にあります。
CO2が悪者にされ、脱炭素ということでEVなど製品の電気化が進んでいますが、これが逆に人為環境下
に於ける電磁波被爆を高める結果となっているようです。人の免疫力は低下する一方であり、そこにゲノ
ムウォーがやってくれば人類の相当数が被害を受け子孫を残せなくなる可能性が出てきます。
よく陰謀論で人類削減化計画なるフェイクニュースが流れているようですが、事実ではなくとも結果として
そうなるだろう、という人類の無意識の恐れとも取ることができます。
電磁波は美容によくありません。パソコン仕事を職業する女性はシミが多く出ます。また女性は骨粗しょう
症も要注意です。美容と健康の大敵というわけです。また循環器系にも良くなく、膠原病、脳梗塞のおそ
れもでてきます。
なんか悪い話ばかりして申し訳ない気がするんですが、写真は所詮電気紙芝居です。本当に大切なもの
を見失わないようにしなければなりませんね。
バーヒー山口さんも言っておられましたが、写真はこの世界や社会との結びつきを自覚させてくれます。
氏は子供の頃結核を患い暗い幼少期を過ごされたようです。それでコロナにも慎重をと申されています。
写真はオタクとして個人趣味として捉えるよりも、写真を通じて多くの人との出会いがあり、また自然界
での探求にも役立つものであって、写真をもっと積極的なものとして考えていきたいということですかね。
S9000さんのお写真をみていれはその意味がよく理解できるかと思いますが、とにかく好事例となって
います。
写真は自分だけで撮っておしまいではなくて、やはり世間に露出させないといけません。この掲示板を
視聴されている読者は多いとおもうのですが、意を決して投稿してほしいものですね。それが世間との
結びつきとなりますから。
こんばんは。コメントごくろーさんくす (^^)v
Kusanagiさん憤懣やるかたないほどの、マイナスイメージが強い「オタク」ですが、まあそれでもなぜ使われ続けているのか、放送禁止用語ともならず一般化しているのか、そこが本日のお題です。くけけけけけ。
オタクは未だにマイナスイメージが根強いことは、検索結果で「脱オタク」が「目指せオタク」を3:2で上回ることからも明らかです。(思ったよりも拮抗しているが)
マイナスイメージがあるのになぜ使われているのか、置き換え用語がことごとく衰退するのはなぜか。
それはオタクという言葉が「良くも悪くも日本人のありようだから」であろう。マイナスイメージを排するための置き換え語は多数出てきて、例えば「オタッキー」もそのひとつで、意図は、「女の子にもてるオシャレなオタク」であったが、あっという間にオタクの同義語として飲み込まれ、そして衰退しました。
ちなみに、「脱オタク」は、30年前にすでにマスメディアでは語られていました。オタクのマイナスイメージ要素のひとつに「消費するだけの存在」と解釈されている点もあるが、この消費という言葉にひっかけて考えると、オタクもまた本来なら、消費されてしまうはずの存在だったと言えます。
マスメディアはブーム事象を消費する、つまり、隆盛すれば「発見」して取材しコンテンツとして消費するが、その下降期にはネガティブな要素を抽出し強調・喧伝することで、離れかかった世間の関心を誘引し、コンテンツとして消費しつくそうとするものです。そうすることでブーム事象が完結し、次のブーム事象について新寄性が増し、時代が回転していくわけです。
一度ブームとなった事象は周期的に再燃するし懐古ネタとなり再消費される、つまり、「輪作型の焼き畑農業」的手法として回転させるもので、この手法は今でも使われているので、身の回りで探してみてください。
しかし、オタクそのものについてはこの手法はうまくいきませんでした。
オタクがまだ新奇な存在であったころ、露出し脚光を浴びたオタク集団(露光オタクと言うべきか)やオタク作品に対しては、オタク内部からの攻撃が行われ、また「オタクとは密かに進行するもの」と地下的サブカルチャーの側面を重視するオタク層からも、そのあり方や内容について批判が噴出しました。(いわゆるオタクの内紛、サブカル論争)
が、それはむしろにぎやかしにすぎず、問題は、マスメディアもオタクの次に来るもの」を示すことができなかったこと。そもそも、そんなものは存在しませんでした(爆)
オタクが隆盛した時期と「余暇の昭和史」の終焉、バブル崩壊、ネット社会の発達は、単に重なっているだけではなく、有機的に結合しています。この時期、音楽や映像の作品ジャンルや配信ルートが拡大し、再生機器も発展したこと、またいわゆるメディアミックスが飛躍的に発展したことから、70年代をひきずる旧式なメディアコンテンツでは、不足が生じていました。
オタクを一時の話題ととらえた人々は、コンテンツとして消費することに走ったはずですが、深入りするうちにオタク層が意外と深く、広範囲に存在することに気づいて、結果としてオタクに飲み込まれてしまった様相があります。
例えば、「週刊プレイボーイ」に理解不能なものとしてのオタク観察を連載記事化し、笑いを取ろうとした事例がありました。当初はアニメ、軍事など「メジャーな」オタク分野をとりあげていて、それらは私が見ても面白くもあり、痛しくもあったのですが、連載が進むにつれ、「スキー」「サーフィン」「トライアスロン」「自宅カクテルバー」など、レジャー、スポーツ、社交など、一般に知られていた分野にオタクが凡在する様子が描写され、「オタクとは特定の分野に限らない、活動嗜好の形態である」という面を浮き彫りにし、オタク像がかえって霧散してしまうことになりました。
オタクを忌み嫌うような発言をしていたコメンテーターが、しばらくすると嬉々として自身のオタク趣味を語る、という転身が見られたのもこの1990年代前半でありました。
もっとも、「オタク」とされた側からすれば「ずっと前からやっていた」(田中長徳氏のカメラコレクションと同じ)ものであったわけで、急に周囲が騒がしくなった、という気持ちでしょうが。
このオタク文脈で考えると、「オタクではないもの」「オタクの次に来ると期待されるもの」を探した人々が見つけてきたものは、「そのすべてがオタクだった」と理解すべきでしょう。
1990年代前半、マスメディアが「脱オタク」のイメージリーダーとして起用したのは、10代アスリートやプロスポーツ選手などでしたが、彼らの中にはプライベートでオタク趣味を楽しむ人もおり、「あなたは世間のオタク族とは違いますねえ」と持ち上げられることについて、とても困惑していた様子が感じられます。なお、昭和には、登板日の翌日、自宅でカメラコレクションをいじることが疲労回復の手段だった、というプロ野球投手もいましたが、それが否定的に報じられたわけではありませんでした。そして、平成も後期になると、アスリートのアイドル推しはむしろ普遍的なオタクコンテンツになっていきます。
この流れの中で、マスメディアも企業社会も「脱オタク」どころか「活オタク」に進んでいき、不足するコンテンツを拡大するためにオタク経済というものが発達していくわけです。その中心にあったアニメ、漫画、ゲームなどの分野が、狭義のオタクと定義づけられるところ。
もちろん、この時期はバブル崩壊で消費市場(あるいは「浪費市場」)が縮小しているのですが、1990年代半ば頃までは個人ベースでは年収は上昇傾向にありました。(これはバブル期の給与設計が異常だったため)この頃流通しはじめた、デジタル家電の「走り」製品は、オタクの購買力に依存しており、極論すれば、ハイファイビデオもワープロもパソコンもデジカメも、オタク層が先兵として飛びつき、そこから普及したものです。(ここでも「はじまりはいつもオタク」)
年収や生涯収入が減少に転じたのが1997年で、そこからの経済衰退・個々人の可処分所得減少が、若者の閉そく感につながり、オタク増につながっている面はもちろんありますが、逆に、オタク趣味が若者のセーフティーネットとして機能した面もあるし、そもそもオタク経済がなければ、日本経済はもっと壊滅・後退していたかもしれない。
だからといって「オタク偉い、オタク\(^o^)/」という単純な結論ではありません。この話をつきつめると、「オタク」とは好き嫌いの問題ではなく、日本人そのものを示す言葉だ、ということです。
「よくも悪くも日本人はオタク」とはそういう意味で、我々(それが誰と誰かは聞くものではない)誰しも、ある分野ではオタクであり、また別の分野ではそうでない。
であるなら、なぜ高齢者層を中心に、オタクに対するマイナスイメージが強いのか、という疑問が再燃するのが道理ですが、これはひとつには、オタクが各分野の「楽園」にずかずかと土足で踏み込んでいる点は否定できないですね。(「花園を荒らす者は常にオタク」)
「オタクは消費するだけだ」というイメージについても、表現や創造に取り組むオタクもいるし、kusanagiさんの準長文もひとつのオタク表現でありましょうが、やはりオタクの創造性は方向が拡散的で、長い時間をかけてゆっくりと遠心分離するか、少数の輝く才能に期待するか、ということにはなります。
なお別の見方をすれば、「余暇の昭和史」に忠実に生き、働きぬいた人々が、やっと老後という最大の余暇を迎えたとき、その安寧の場を脅かす存在がオタクであったかもしれません。私の年長の写友には、オタクではあるが、老後デビューの人々の受け皿として写真サロンを主催する人もいるので、関わり方もいろいろ、ではありますが。
オタク評論を創作表現と主張することはなおさら抵抗を感じるかもしれないし、本当は高齢者のオタク忌避には、「カルチャーとサブカルチャーの対立図式」でオタクをとらえている視点も存在するはずですが、そこは意図的にオミット(^^)v
さて、オタクもまた、人、世界、社会の結びつきの中で生きていく存在であるが、その方法に特異性と硬直性、それでいて多様性があることはどうしようもないことで、オタク観察すなわち人間観察であり、これは写真の本質と何ら矛盾はしないという、本日のオチが導かれるわけです。くけけけけけけけけけ。
オタクが20世紀日本における、最大の新語・造語であると私は思っているのですが、果たして、これが22世紀まで続くかどうかはわからないところです。老人層が抵抗を感じつつも、若い世代がオタクという言葉に抵抗を感じなくなってきているということは、逆に、いつかこの概念も空気のように透明化・希薄化し、「平成レトロ」として、奇抜なファッションとともに「オタク横丁」のようなテーマパークにおさまるのかもしれません。
まあ、本日のお題はここまで。
ところで、ショット数を示すソフトを提示いただいたことはより創造的かつ親切であり、ありがたいことであると思っていますよ(^^)v
ぢつはこのソフトは数年前にゆきついたことがあり、この掲示板でも話題にしたことがあると思いますが、まだその時点ではやや古いEOSしか対応していなかったと思います。kusanagiさんの情報により、リバイスされたことがわかったので、中古機の鑑定や、自己所有機の管理において期待されるところ。
で、kusanagiさんの購入個体は、ショット数いくらだったのかい?
私をはじめ高齢者層(コロナでお馴染みの65歳以上)がオタク言葉に違和感があるのは、おそらく高度
成長の昭和の時代を知っているからだろうとおもってます。日本が元気だった時代ですね。
それでオタクという言葉が始めて出てきたのは、多分、宮崎勤かな。1980年代末の事件だったと記憶し
ますが。(昭和から平成の時だったか) 当時はデジタル時代ではなかったので宮崎がのめりこんでいた
オタク趣味はアナログビデオ鑑賞だったようです。雑誌などもあったでしょうね。
宮崎はオタクというよりもシリアルキラーなんですがオタクの仮面も被せられていた気がしてます。
時代的には、この80年代末に、まず1985年にプラザ合意があり日本はバブル経済となりやがて、長い
長い経済停滞が始まりました。日米経済戦争に日本が大敗した時代だったのです。
それでオタクという言葉を好む世代というのは、バブル以降に青春時代を過ごした世代となるように思い
ますよ。昭和の映画ファン、カーマニア、などから、平成のパソコンオタク、ゲームオタクへと、時代の変遷
で言葉が変わってきたということでしょうか。
カメラなどは昭和も平成もずっと続いていますから、カメラマニアとカメラオタクは並存しているかも知れま
せんが、私の世代だとメカニカルフィルムカメラ時代からやっておりますので、デジタル時代になってから
でもカメラマニアが順当のような気がします。田中長徳氏もそうでしょう。しかし今の40歳代くらいまでの
世代だとカメラオタクになるのかな。
マニアという言葉は昭和の匂いがし、オタクは平成の臭いだということです。マニアやファンは昭和の積極
的なイメージがあるのですが、オタクには平成時代以降の敗北主義のイメージが漂っているんです。
漫画だってマニアとオタクが共存している気がするんですが、アニメだとオタクになるんでしょうか。そこら
はS9000さんが詳しいでしょう。
こういう時代考証はね、きちんとやっておかないと学問分野レベルだとまともに相手にされなくなります。
何でもかんでも現在からの視点でやってしまうと、それは中韓レベルになっちゃうんですね。かの国には
歴史考証の学問は無くて、現在の政治力学があるだけです。
それで日本の負け戦は今も連綿と続いているのであって、その敗北戦を表す言葉として、オタクという
的確なワードがあって、そのオタクのイメージはまさに敗北の平成時代にぴったりだったというわけです。
今の令和もそうですね。だからオタクという言葉が一向になくならないというか、新しく更新していかないん
です。
日本の衰退は諸外国からみれば明らかであり国民は活力を失い、超々高齢化社会ですし少子化に歯止
めがかかりません。こういう暗いイメージにオタクという言葉はピッタリなんです。ですから少しでも脱オタ
クをしていかないと本当に日本の未来、若い人の将来は悲惨なことになってしまいます。
まあ、S9000さんは純粋に、物事をひとつ脇目もふらず一所懸命にやっている人達の姿として、オタクを
明るいイメージとして捉えているのは良く分かります。気持ちは分かるんですが、とにかく時代考証が
ぜんぜん出来ていないです。これだと一般の方々を説得できないですね。情熱だけではだめで怜悧な論
理というものが求められるんです。時代や社会をリアルに見るという眼が必要ですよ。
ついでに言うと、そのリアルな眼と考察に到る訓練として、写真というものがあるんではないですか。
もうひとつ言うとね。デジタルカメラというのはメカニカルカメラと違って、シャッターユニットは心配ないで
す。私のコレクションでシャッター関係が劣化して交換したのはニコンD2Hのみです。高速連写機でとこと
ん使いましたから。他のカメラでダメになったのは電子基盤の劣化です。内臓コンデンサの電圧が上がら
なくなった為です。デジカメがダメになるのはほぼそのコースですよ。それと液晶ですね。ヤレてきますか
ら。暗くなってライブビューなんかできなくなります。この二つさえ気をつけていればよいのであって、使用
劣化もありますし使わなくとも経年劣化もあるんです。
ここらはカメラマニアでもくなく理系でもないS9000さんが知らなくても不思議ではないんですが、まっでも
今、知りましたね。(笑) 高級機といわれるカメラ、とくにプロ機というカメラは、この基盤が優れていて耐
久性があります。だてに高いわけじゃありません。それは高品質のパーツを使っているからです。
例えば10万円の予算があったとして、新品の廉価機を買うか、それとも高級機の中古を買うか。私は迷
わず使用感の少ない高級中古を選びます。長生きするのは後者だからです。
11番投稿で間違いを見つけました。バーヒー山口ではなくハービー山口氏でした。(笑)
氏は私より幾分年上ですが、同じような写真の時代を吸って写真をやり始めたようです。思えば昔のカメ
ラは今のように電子カメラではないのでほんとうに良かったですね。電磁波なんてモータードライブ以降の
ものですしEVFなんてのも影も形もありませんしパソコンも必要なくて暗室でアナログにやってましたから。
そういうカメラでやっていたから、もしかすれば写真の素晴らしさを自覚できたのかも知れないと考える
ときもあります。とにかく今のデジタルカメラはせわしなさ過ぎますし、安易過ぎます。
この掲示板の廃れというか零落は、そういうデジタル写真の限界に皆さんが気が付いたからではないの
かなっていう気もしていますね。
昔の写真の、現像液に漬けた印画紙に、ふっと絵が出てくる感じは、これが写真なのかと自覚させる魔力
があったのですが、今の写真にそれはほぼ皆無ですわね。そういうオタクな時代ですかね。(笑)
こんばんは。コメントありがとうございます(^^)vおやおや、血圧上昇ですかな?まあまあ、まずは落ち着きなさい(*^^*)
ま、この反応を見ると、考察云々以前に、kusanagiさんというぢーさんの本質を直撃してしまったようです(‘◇’)ゞそんな意図はないんですけどねえ・・・
まあ、考察は、そんなカッカするだけではだめで、怜悧な論理というものが求められるんです。時代や社会をリアルに見るという眼が必要ですよ。ついでに言うと、そのリアルな眼と考察力を獲得する訓練として、写真オタク道というものがあるんではないですか?
ところで、時代考証に限らず、オタクが学問分野で相手にされないのは、仮説を結論として語るからです。オタクはいつの時代も考証と検証が苦手ですから。
現在は高齢者に入った、いわゆる団塊の世代が、定年退職を迎える時期に、「団塊ビジネス」なる、彼らの老後デビュー(退職金特需)をあてこんだ商品戦略が展開されました。それが成功をおさめなかったのは、リーマンショックが重なった不幸もありますが、そもそも「余暇の昭和史」を含めた、考察が不十分だったものと思います。これは、団塊の世代自身による最後のオシゴトだったかもしれないが、自分で自分のことはわからないもので。
とはいえ、販売戦略は、その結果が実証であるわけですが(‘◇’)ゞ
昭和が勝利、平成が敗北、とのことですが、歴史は勝利と敗北の繰り返しです。一時点の勝者もその過程において敗北に直面しうちひしがれたこともあるだろうし、結末における敗者も希望と野心に燃えた時期があるはず。我々は歴史の読者として、結末に目をひかれがちですが、俯瞰する姿勢を保たなければなりません。
平成の敗北主義、と言われますが、昭和を過ごした高齢者が、オタクに嫌悪感を持つことそのものに敗北主義を見出すことができます。「余暇の昭和史」に立ち戻ると、昭和のオタク層は、「趣味でメシが食えるのか?」と罵倒された経験を普遍的に持っているようで、オタクの大家が、写真関係者も含めた自営業層に集中しているのもその考察の根拠です。
で、いいですかね。ぢや、オタク話いきますよ?
ということで、本日のお題「漫画分野のオタクとマニア」。
kusanagiさんが高齢オタクとして主張する「マニア像」も考慮する必要がありますが、この命題はすでに世間的に(どこの世間だ?)議論が行われています。
漫画は一般に流通する大衆娯楽であるので、「毎週、主要誌はすべて読む」人も存在するが、それはたとえば中高生などでは一般的なことであり、それだけでマニアともオタクともいえないものです。それは単なるヘビーユーザー。ヘビーユーザーの中には、「漫画は大量に購入するがそれは待合におけるサービス提供用で、自分では全く読まない」散髪屋さんのような存在もあるわけです。
漫画におけるマニアは作品分野に関する嗜好、偏向の様相を示す概念として語られることが多く、一方、オタクは考察評論、二次創作等の発表など、行動様式を示す概念として使われているようです。したがって、同一人物について「島耕作オタク」「経済漫画マニア」などと適用可能。
(ちなみに「島耕作」は経済漫画ではなくサラリーマン漫画ですが)
よって、同一人物がオタクでありマニアでもありうるが、もうひとつ別の概念として、「初版本コレクター」「サイン本コレクター」もありえます。これは漫画には限らず出版物ないし切手や切符などに普遍的な存在。
しかしながら、漫画におけるマニア・オタクの分類論で、オタク側が主張する「オタクは文化を創り出すがマニアにそれはできない」という文脈には私は賛成しません。
これは、オタク層が、大人になっても漫画を読むことを是としない昭和的価値観に対して反発するメカニズムが作用していると思いますが、私の周囲には昭和から漫画を読んでいたオヤヂも多数いるので(^^)v
私は正直言って、「オタクぢやないよマニアだよ」という発想がないので、両者を分離して考えることよりも、「このヒトはどう見てもオタクなのに、なぜマニアだと自称するのだろう」という疑問のほうが先に立つのです。
こうして漫画オタク・マニアを考察してみても、やはり「昭和史的価値観」にぶつかりますね。昭和において漫画は子供のものであり、大人になっても読んでいることは恥とされましたし、漫画と近しい関係にあるアニメにおいても、NHK職員がアニメ部署に配属されたとき、同僚から「かわいそう」と言われた、という述懐も読んだことがあります。(ちなみにNHKアニメは非常に高品質)
ところでね、デジタルカメラに電子部品なんてほんとは入っちゃいないんですよ(笑)
デジタルカメラにはね、小さなぢーさんが入っているんです。そのぢーさんがイッショウケンメイ、オシゴトしてます。ぢーさんですから、どんどんちびてきますね。あと、香川弁しゃべってますね。
そう、デジタルカメラは「電気紙芝居」なのです。むはははははは。
ではまた次回。
そろそろこのオタク論、勝負あったかなって思ってます。(^^ゞ 13番は将棋での王手なんでして、これ
でもう詰んだでしょう。しかしまあ、お陰でだいぶ今の世の中の政経事情と風俗との間にも密接な関連
があるということが私も理解できるようになりました。これはS9000さんのお陰ですね。
それと首に重いカメラをぶら下げるのが危険というのは、もしもの時にその重量の衝撃で頚椎を損傷
する危険性があるということですよ。知り合いで重い物を持ったままトラックの荷台が飛び降りた馬鹿
がいて、その衝撃で腰椎を損傷したそうです。
カメラのストラップを手首に巻くと、転んだ時にカメラだけでなく手首も傷める可能性があります。それで
ストラップはいつでも外れるようにしておかないといけませんね。肩にかけるのならばタスキ掛けは
危険で、片肩掛けでないと。バッグだと柔らかいのでタスキでかまいませんが。
ちなみに絞首刑は首に巻いたロープで窒息させるのではなくて、足場がストンと落ちてその体重の重量
の加速度の衝撃で頚椎を折るんですよ。それで即死ですから。特殊部隊の頚椎折りも体重を利用して
ます。相手の首に腕を巻きつけて足払いを掛けます。これものすごく危険ですから絶対真似しないよう
に。人間の関節部分は弱いんですね。関節技はそれを利用してます。手首を捻るだけで相手を宙にひっ
くり返すことができますから。柔道なんかは危険な関節技は全て禁止して教えませんが古武道はそんな
のがいっぱいあります。
とにかく2キロもありそうなカメラを首に掛けて身体の正中に置くなんてことは危険極まりないことですね。
視聴者の皆さんは絶対にそんなことをしてはいけません。財務省の奥様が旦那の健康維持の為にと、
そのために買ったレンズが逆に健康を損ねることになってしまっては元も子もありませんね。
私のカメラはボディとストラップの間に金具(フック)を挟んでいて強い力が掛かると外れるようにしてます。
フックの自在性の利便もあるんですけど、もしもの時にカメラは持っていかれてもいいけど身体まで巻き
こまれる危険性が防止できるからですね。カメラのストラップは強靭でして体重を掛けても切れません。
ストラップの止め具がプラスチックなのも態とそこを弱くしているのかもしれませんがこれも強固です。
そういえば、腰のベルトにガチャンとカメラを取り付けるツールがあるようですが、これも危険ですね。
なぜ手に持っていたカメラを投げつけなかったか・・・そんな議論なんて馬鹿ではないでしょうか。投げた
カメラがどこに飛んでいくかもわからないのに。浅沼さんに当たる可能性もあるしで。投げるのは座布団
だけにして。(笑)
S9000さんは機材にもぜんぜん明るくないようです。シグマはミラーレスカメラにも、レンズを多種リリース
しています。私もソニーマウントのシグマをひとつ使ってますが良好な描写をします。
S9000が求めている幻の「ぢいさんオタク」というのは、この人じゃないですか。
https://photoxp.jp/pictures/217239
これの3番。
>UFO 2021/7/4 12:32
>いつもいい加減なコメント放出して呆れているが、それはXPをログインから入室すれば可能なことだ。
>何年XPで飯食ってるのか知らんがよく勉強しなさい。気に食わぬ画像やコメント付けられれば
>まとめて削除もできる。アカウントこしらえて、試しにやって見たまえ。
この方は機材オタクであり撮影オタクで投稿オタクでもありましたね。今は写真を撮っているのかどうか
は不明ですが、捨てハンオタクはずっと続けているようです。常識的には信じられないような人なんです
けど、これはオタクだとすれば少しは納得がいきます。あーっ、そーか、オタクだったのか、でね。(笑)
それにしても上の文章は、意味不明ですね。文法も論理もめちゃくちゃでして、実はもう一人こういう文を
書いていた方がおられましたが、その人は今は投稿を休止しています。
>いつもいい加減なコメント放出して呆れているが・・・・これは2番投稿の私のことか。
>それはXPをログインから入室すれば可能なことだ。・・・ここでもう文章が繋がってません。
>何年XPで飯食ってるのか知らんがよく勉強しなさい。・・・XPで飯食ってる人、いないでしょう。(笑)
>気に食わぬ画像やコメント付けられれば、まとめて削除もできる。アカウントこしらえて、試しにやって
>見たまえ。・・・これはKazさんに言ってるわけ?しかし事実はデタラメです。
こういうめちゃくちゃな文章というのは若いときからそうだったのか?というと、そんなことはないでしょう。
たぶん写真オタクを始めてからだろうと思います。こんな文章を書いていたんでは会社や役所勤めは
できませんし、現場作業でも機械のマニュアル説明書ひとつ読めないでしょう。
はっきり言うと上の学力は小学生低学年並みです。そして言ってること自体は赤ん坊です。
これはほんとうに恐ろしいことです。こういうことを放置しておくと病気はどんどんと進みます。ここらが
歳をとってからのオタク趣味の怖いところです。
こんばんは。コメントさんくすだまわり。
ほいでね、ぢーさん、あんた、泣きべそかいてここにきたわけかね?小学校低学年と言うが、kusanagi氏の↑の言動は、先生のところに駆け込んでくる小学校低学年男子の行動にそっくりだが?
残念ながら私はkusanagiさんの保護者ではないのだ。すまんな。それに、小学生に最近接しているかどうか知らないが、小学生はけっこう博識だし文章力も持ってますよ。少し前、「小学生のサッカー」=全員がボールにむらがる無秩序で場当たりな様子、の例えがありましたが、小学生のサッカーは、クラブチームでなくてもそんな感じじゃないです。それらの表現もオタクの様式美、に数えられるかな。
そして、オタク同士の同族嫌悪ですが、これは生命の基本行動であり、近親交配を避ける本能のなせる業でありましょう。(オタク仮説です)
といって、別にkusanagiさんを私が攻撃する筋合いでもなし、ここまではいわば導入としてのうだバナシであり、深い意図はありません。
kusanagiさんの言う、ある特定の人物については、私の感想では、「権威主義系オタク」の匂いを感じるところです。機材オタク、撮影オタク、投稿オタク、捨てハンオタクと並べると長々しいが、総括すると俗物オタクでいいのでは?
とはいえ、権威主義そのものには是も非もなく、人間の習性であると思います。今日では、メーカーとカメラマンの関係も、相互に権威付け(箔付け)でWin-Winの関係です。ここ10年、若い人々はインフルエンサーという新しい形の権威を創出しているようですが。
「監督さん、やむをえん、あんたを信用させるための権威付けをしておこう。わしは元・中日ドラゴンズコーチ、星一徹」(劇画「新巨人の星」における星一徹のセリフ)
「小学校低学年」という言葉が出ましたが、ほんとはオタク仮説のうち、「子ども部屋モデル」を予定していたのですが、kusanagiさんの様子が少し切迫しているようなので、急遽変更します。ということで、本日のお題は「オタクの権威主義」でいきましょう。ぢや、開始。
機材オタクをもう少し進めて、写真機材評論ととらえた場合でも、現状において、写真機材を主対象とする評論家について、その権威が確立し、著名な評論家が指折り列挙されるような分野とはいいがたいと思います。高名なオーディオ評論家であった故・菅野沖彦氏は「写真家」という呼称を尊称ととらえて、それに比肩するものとして「レコード演奏家」を提唱した話を、氏の訃報に際して紹介しました。ところが、「(音楽)演奏家」と「音楽評論家」に対して、「オーディオ機材評論家」はジャンルとして確立しているのに、「写真機材評論家」はどうも確立しているとは思えないのです。(現実にはそのように自称している評論家は、馬場信幸さんや田中希美男さんなどがいます)
「写真評論家」は確立しているし、「写真家」は言わずもがな。ということは「写真機材評論家」の任は、大部分、写真家・写真評論家が負っていることになるのでしょうか。ここは、機材オタクの奮起が望まれるところです。わてくしはオタクでありますから、いろんなオタク分野を渡りあるくのですが、オーディオ・飛行機・自動車の評論家には、その対象とされるメカにはほとんど興味を持たないのに、その評論家のファンである、という層が成立しているのを観察しました。(決して多数ではないが)
ということで、「写真機材評論」が独立した評論分野として活況を呈するには、評論そのものが魅力的な読み物として成立すればよいわけです。もう少し掘り下げると、メカに関する魅力的な評論は、それを構想し、創り造って世に送り出した人々の思いを翻訳して言語化したものなのであります。
もちろん、評論なので、本当に作った側の人間が書いた文章には到底かなわないわけですが。(オタク用語では「作った側の人」を「中の人」と称する)
脱線すると、これは、どんな名訳も原著には及ばないということで、仕方ありません。たとえば俳句を英語化するのは困難ですよね?(リズミカルな散文詩、として作られる英文俳句は存在する)
といって、これは単純に文才の問題だ、ということではないですヨ、たぶん。
翻訳という言葉を連呼しましたが、写真評論には「写真の翻訳」という概念が存在します。 https://www.1101.com/juku/hiroba/1st/free-143/01.html
これは身近なことであり、この掲示板で投稿された無数の写真に関して、その意図や状況を推察する、自分が感じたことを言語化する、つまりコメントすることも写真の翻訳です。我々は10何年も無償でそうした場を与えていただいていることを、もっと管理人さんに感謝しないといけませんが、ついつい忘れてしまいます。
「魅力的な評論」に話を戻すと、オーディオや自動車の評論が成立しやすいのは、そうした機械がもたらすその場の空気、体験者の感覚というものが、言語化しないと伝わらない性質のものだからともいえます。例えば、PF先生ことポール・フレール氏の評論が魅力にあふれているのは、彼が語るほどのハイスピード・ドライブを誰もできないことが根底にあります。そして彼はそれを言語化する才能にも恵まれたわけです。しかし、聞くところではレーサーは、クルマのよしあし、改良すべき点、改良が達成された点、その日の気候条件とのマッチング状況などをすべて言語化してメカニックに的確に伝える能力が求められているそうで、引退後の彼らが魅力的な自伝や評論を生み出すのも自然なことかもしれません。
写真はもともと何かを伝えるためのツールでもあるので、別の意味で言語化は難しく、写真評論家のハードルは高いかもしれません。(よーするに「百聞は一見にしかず」)
写真機材評論はもっとハードルが高いかもしれない、「ぐたぐた言わずに撮った写真を見せろ」になりがちです。(つまりは「ここがロドスだ、ここで跳べ」)
設計意図の翻訳、存在意義の言語化は難しい、それと私は少なくとも写真機材オタクではないのですが、誤解を恐れずに言えば、今日のカメラ、レンズは、他の分野の機械よりも、完成度が高く、その分、とっかかりが少ないのではないか?と思うときがあります。そのツルツルの表面の上で、機材オタクたちは滑って転んで、を繰り返しているだけではないのか?
その滑りが焦りを呼び、不十分な言語化のままの発信が、結局は自信が欠落した上滑りな評論、つまり権威主義につながっているというのが、今回のオタク仮説です。
機材オタクを擁護する観点があるとすれば、それはこのあたりだろうと考えている。
ということで、本日のお題はここまで。
18番は贅肉をとりますと、こういうことなんでしょう。
>それと私は少なくとも写真機材オタクではないのですが、誤解を恐れずに言えば、今日のカメラ、レン
ズは、他の分野の機械よりも、完成度が高く、その分、とっかかりが少ないのではないか?と思うときが
あります。そのツルツルの表面の上で、機材オタクたちは滑って転んで、を繰り返しているだけではない
のか?その滑りが焦りを呼び、不十分な言語化のままの発信が、結局は自信が欠落した上滑りな評論、
つまり権威主義につながっているというのが、今回のオタク仮説です。 機材オタクを擁護する観点が
あるとすれば、それはこのあたりだろうと考えている。・・・
私が聞きたかったのは言葉過剰な評論ではなくて、驚くほど知力が低下したご本人さんを救う手だてが
あるのかどうか、なんです。ご当人への救い無理としても、誰だってそうなる可能性はあるわけでしょう。
そうなりかけた時に、どうすればまぬがれるのか。そういう実学なノウハウを聞きたかったんですが。
彼が捨てハンをしだしたり、言語不明瞭になったりしたのは昔のことではなく、ほんの2年くらいじゃないで
すかね。それ以前はまともでしたよ。もう一人の方もそんな感じです。むしろご両人は優秀な方だったの
ではないですか。
それからこの方は、Kazさんのスレッドに、私のコメントに反応しているわけでして、私はともかくKazさんは
高学歴であり頭の良い方ですね。それで彼は何かを聞きたかった、もしくは知りたかったんじゃないです
かね。
機材潤沢オタクであろうが、カメラ1台の写真オタクであろうが、こうなる可能性は誰にでもあります。なら
なくてすんでいるのは偶々の運の良さだけではないですか。
私はそういう物理的理系的なノウハウを持っていると思っているのですが、それはあまりにも異端すぎて
残念ながら広く他者に伝達することができません。先日も最近の現代史をある方に分かりやすく説明した
のですが全く無理でしたね。真実であればあるほど通じませんので。(笑) 私の各種異端論をこれまで
理解してくれたのはごく少数の方だけです。そういう方は論理の能力で正否を見る力がありますから。
正直な感想として、このままではこの掲示板に投稿される方はますます少なくなっていって最後には誰も
居なくなるかもしれません。まあそれはないのですが、全体としての投稿力や写真力は落ちる一方です。
それは現在では写真の力が際限なく落ちているということを意味しているんだろうと考えてます。
今の掲示板投稿のトレンドは、しばらく投稿すればその後はしばらくは休む、というスタイルになって来て
いるようです。そういう具合にスローペースでやっていく。それでこれからのニュースタイルの掲示板が
回っていく、ということになろうかと思いますね。
私は論理で淡々と投稿をしていますがこれは稀なケース。S9000さんは優れた体力で投稿を休みなくさ
れています。ご本人曰く、厚い面の皮に分厚い頭蓋骨、弾丸も跳ね返す強力な眼力で、疲れるということ
を知りません。これもレアな例ですかね。
しかし普通の人間はそうはいきません。疲れたなって感じれば少し投稿は休む。写真も休むという具合
でマイペースでなされれば良いとか感じます。
S9000さん曰くの機材オタクと、私が言うところのコレクターには、決定的で本質的な違いがあります。
それは機材オタク達が新品の高級機しか買わない使わないということです。安物は視野の外なんです。
私の場合、キヤノンで言えばプロ機も数台中古コレクションにありますが、キスデジも4台所持してい
ます。そして殆どは中古購入なんですね。かたや機材オタクは中古は買いません。中古なんて主義に
反するってなるわけです。カッコ悪いと思っているのかも。
とにかく新品の高級機を買う、しかも次々と使う、という御仁がS9000さん曰くの機材オタクではないで
すかね。それで私などは中古しか買わないというか買えません。ここのところをきちっと分析して抑えて
おかないと話が混沌としてきますから。多分この分析だけで、自ずと結論は出できますね。
・・・機材オタクたちは滑って転んで、を繰り返しているだけではないのか?その滑りが焦りを呼び・・・
結局は自信が欠落した上滑りな・・・つまり権威主義につながっているというのが、今回のオタク仮説
です。機材オタクを擁護する観点があるとすれば、それはこのあたりだろうと考えている。・・・
つまり最初から新品高級品という権威主義だったということですかね、それはズバリ言っているわけで
して、何も擁護にはなっていないと思いますけど。(笑)
機材オタクたちは、自分を強く大きくみせるために高級機材を買い写真を撮って掲示板にあげていたの
かも知れません。そこまで言うと可哀想な気がしますけど、結果的にそういうことになっていたのではな
いですか。もっと追求すると我が欲の為に写真を利用していたということでしょうか。
そういう写真行為が長く続くはずがなく、また副反応として捨てハンを生んだわけですね。
捨てハンは写真と掲示板への冒涜ですから、それは最初から機材購入時点で我欲で写真を冒涜してい
たのと何ら変わりません。
しかして捨てハンは本当の副反応ではないのです。新型コロナワクチンいわくの副反応というのは、17番
で示した知力の大幅な低下です。そこに如実に現われていると見てよいでしょう。
なお、一般的に言って写真に夢中になりすぎると知力が低下するんです。これはフィルムの時代から言わ
れていましたね。写真を撮りすぎるといけないというのは写真の経験が長い人は誰でも知っています。
上の機材オタク達が自意識過剰で高級機材を買い、その膨らんだ自意識で写真を汚したというのは、
これは文面の経緯から誘導されて書いたのであって、本当は事実とはちょっと違でしょうね。最初は、
本来の写真というものを追求しようとして、そういう意気込みが彼らにもはあったわけですが、いつの間に
か忘れさられ、自意識過剰な写真行為となってしまっただけだと私は見ています。彼らも何も最初から
機材オタクではなかったわけです。これが本当の彼らへの擁護論だと思っています。
高級機材オタクの○○○さんも○○も、また○○さんも、当初はこの私とよくコメントをし合っておりまし
た。ところが次第に彼らから私は疎んじられていくようになり、最後は捨てハン攻撃の対象になったわけ
です。
それはどういうことかと察しますと、最初彼らは、私が機材オタクの仲間だと思っていた思っていたようで
すね。ところが話が進むうちに、私は機材オタク仲間どころかむしろ機材やオタク達を攻撃してくるように
なったわけです。まあそう見られるようになったわけですね。つまり、彼らにとってみれば裏切られたわ、
と感じているんじゃないですかね。
しかし私は機材は持っていても、オタク的に物に対しての浸りとか偏愛というものは一切ありませんので、
オタクたちとは気持ちを共有できないわけです。私にとってカメラは単なる道具でモノにすぎませんから。
私が機材主義というか機材オタクだと思われていたのは心外なのであって、どうしてそんな風に思われた
のかは分かりませんが、彼らの思い込みでしょう。むしろ当初から私のコメントはカメラや写真は危険であ
ると再三にわたって発言していたんですけどね。
知力の大幅な低下は、感情をむき出しにして権威主義的になるということに現われています。これは知力
が低下すればだいたいの人はそうなります。酒を飲んでもそうなる人が多いので想像はつきますね。
機材オタク達は、その使っている機材が豊富で高性能です。そして一般的に言って高級機材ほど副反応
アナフィラキシーショックは大きいのです。本当ですよ。
これはカメラやレンズだけではなく、見過ごされやすいのですが、PCやモニターもそうです。モニターに関
しては、私も最初はプロ用24インチモニターを使っていて、これではぜんぜんダメだと知り、通常高級機の
24インチにしました。それでもアカンということで同機種の23インチにスペックダウンしてます。しかもその
モニターも滅多に使いません。今この字を打っているネットに繋がったPCのモニターは通常機モニターで
すね。多分このクラスで皆さんは写真をやっているはずです。
こういうのはモニターだけでなくPC本体にも同様に言えます。PC内臓のグラフィックカードは、私は比較
的よいものを使っています。タワー型PCを使っているので交換が利き、廉価モニターはこのカードで随分
とカバーできます。
このグラフィックカードとモニターの品質を上げてやりますと優れた絵が見れるわけですが、同時にその
副反応はスゴイことになります。私がモニターをスペックダウンせざるを得なかったのはまさにこれです。
S9000さん曰くの機材オタク達が、最初から存在していたわけではないんですね。私はそう思っています。
彼らも最初は普通の人達でした。そして次第にその機材の副反応によって、S9000さん曰くの重篤な機材
オタク化されてしまったというわけです。
こういう動的なダイナミックな視点がないと物事は見誤りますね。
そしてここらが高級機材の罠とも言えるものなんです。高級機材ばかり使っていてはその罠に気付くこと
は少ないでしょう。比較する対象がないですから。その点私はコレクターですから廉価機も遠慮なく使用し
ています。廉価なカメラ、廉価なレンズ、PC、モニターも廉価機を同時に使っていますから。それで違いが
分かるわけですね。ここが機材オタクとコレクターの決定的に違うところです。オタクはエモーショナルですがコレクターはスマートなんです。(笑)
・・・今日のカメラ、レンズは、他の分野の機械よりも、完成度が高く、その分、とっかかりが少ないのでは
ないか?と思うときがあります。・・・
特別にカメラがそうだとは思えませんが、昨今の家電耐久消費財は高度にコンピューター化されていま
す。と言いますかデジカメはコンピューターそのものです。またスマホもネットワークそのものですね。よっ
ぽどコンピューターの基本原理を知っていないと過大なストレスを受けることになるわけです。
このコンピューターやネットワークに関しては、オタクではなくてハッカーという言葉が用意されています。
オタクは受動的に生かされているだけですがハッカーは積極的に挑戦できる人々という位置づけがなさ
れていますね。
ともあれ、高級機材の過剰なる副反応を浴びてしまった人達が、それから脱出するのは極めて難しいと
私は考えています。こういう格言があります。逃げるは恥だが役に立つ。
恥も外聞も捨てて逃げ切ること。これが大事です。私もシグマ危機の時そうしましたから。(笑)
恥とか見栄や面子を大事にする人は逃げることができません。感情的に勝気な人もそうです。
私のシグマ危機は副反応の一歩手前でしたから逃げ切りましたが、既にアナフィラキシーに罹ってしまっ
た人は、やはりもう完全に写真趣味からは去らなければならないだろうという気がしてます。カメラや機材
そしてPC機材も全て処分をして、まっさらになることでしか再出発はできないように思いますね。そして
睡眠や栄養を十分にとることです。
これは廉価カメラを使っているから他人事で自分は大丈夫ということを必ずしも意味しないんですよ。
ただ言えるのは、機材は安いもののほうが、またカメラ1台にレンズ数本というのが手堅いというのはあり
ます。しかしこれも幸運が左右します。運が良ければ、という但し書き付きです。
それにしてもS9000さんとオタク論議をすることで、私にも新たに見えてきたものがあります。これは
S9000さんに感謝ですね。
今回は新型コロナウイルスのワクチン副反応に掛けて話を進めました。本来ワクチン接種は有用なもの
ですが、場合によっては重篤なアナフィラキシーによってショック死するケースもあるんです。自分がそう
ならないという保障はありません。もし1回目を受けて副反応が強すぎだと感じれば、2回目は接種しない
という手もあります。これは余談でした。
今回はカメラや写真によるVDT症候群は主に知力の低下を引き起こすという観点を書いています。
それは想像以上なところがあって、私もその地獄の釜の淵に立った経験から言うと、これに自ら気づく
ことは難しいです。人間が人間たらしめているのは知力であって、これが衰えると大変なことになります。
知力と言えばIQとかの頭の良さや学力を思い浮かべますが、そうではありません。そんなのは知力の
どうでもよいほんの一部です。一番の知力は直観力です。危険を察知する能力や、この方向が良いとかこの方向は危険というような判断力です。VDT症候群はまさにそこを突いてきます。
こんばんは。おつかれさん(^^)v
3日間、留守にしていましたが、ロンリーな投稿を淡々と続けていましたか?それにしても、「仮面の告白」ならぬ「オタクの独白」が続いていますね。その勇気は尊重したいと常々思っていますよ(^^)v
機材オタクの言い換え用語としての「コレクター」ですが、少し前に触れたとおり、コレクターは、モノの実用目的から外れた形での保存・保管・展示に偏向した趣味傾向となるので、実用しているかぎり少し遠く感じますね。また、「コレクター」の言い換え用語がこれまた「収集オタク」ということで、堂々巡りをしてしまいます。
これもまた誤解を恐れずに申し上げると、機材オタクに比べて、コレクターという言葉のほうがより響きが悪いように思うのです。例えば、写真機材に限らず、「コレクターズアイテム」という呼び名は、実用価値のないガラクタを指しますね。(服飾など、「コレクション」に別の意味がある場合はこの限りにあらず)
なお、他の「オタク」の言い換え用語として「グルメ」があります。これは主にレンズ分野に使うようで、「カメラグルメ」とはあんまり言わないようです。無理にカメラグルメの用法を使うと、「名店めぐりなど食べ歩きの際に撮影を重視する流法」(あまりやりすぎると撮影するうちに料理が冷めるし、他の客に迷惑をかける面があるので店には嫌われる)という分野につながっていくようです。
さらに例をあげると、この掲示板で提案されたオタク言い換え用語として「機材趣味の変態的バイアス」というものもあります。こういったユニークな呼称は、重篤な機材オタク自身でなければ編み出せないものであり、なかなか面白いですが、長いので、「機材変態」と略すことが適切のようです。
こうやっていく呼称を考えていくうちに、どうしても権威主義を感じてしまうようでしたら、そこを緩和するための提案がありまして、「レンズと呼ばずズンレと呼び、カメラと呼ばず、ラメカと呼ぶ」というもの。「今日はちょっと普通には見かけられないズンレを持ってきました」「私の愛用ラメカをお見せしましょう」「ここはやっぱり標準ズンレでおさめたいですね」「おや、素敵なヅラトップをお使いですな!」
・・・楽しい楽しいオタクの時間が穏やかに流れていく・・・
設計意図の翻訳、存在意義の言語化は難しい、それと私は少なくとも写真機材オタクではないのですが、誤解を恐れずに言えば、今日のカメラ、レンズは、他のどの分野の機械よりも、完成度が高く、その分、とっかかりが少ないのではないか?と思うときがあります。そのツルツルの表面の上で、機材オタクたちは滑って転んで、を繰り返しているだけではないのか?
その滑りが焦りを呼び、不十分な言語化のままの発信が、結局は自信にかける上滑りな評論、つまり権威主義につながっているというのが、今回のオタク仮説です。
機材オタクを擁護する観点があるとすれば、それはこのあたりだろうと考えている。
18番コメントの上記部分が、またまたkusanagiさんを直撃してしまいました。よもやそのために「知力の低下」が発生したわけでもないだろうが、ちょっと読み返してみれば、おわかりになるであろう、「機材オタクを擁護する観点があるとすれば、それはこのあたりだ」という表現は、18番コメント全体にかかっています。
要約すると次のとおり。
「写真機材オタクにおいて圏域主義的傾向がみられるが、写真機材評論には権威そのものが確立されていない、しかし他の分野の機材に比べて写真機材の評論(機材の諸価値の翻訳つまり言語化)は難しい要素がある、なおかつ近年は写真機材の完成度も高く、評論の足場が得られにくいのでよけい難しい、そうした困難にチャレンジしていることだけでも、機材オタクの存在意義を認める(擁護する)観点がある」
18番コメントは前半が要所であり、kusanagiさんが直撃されたと感じた部分は、まあ氏の表現を借りれば「贅肉」です。しかし、贅肉のない筋肉だけの肉料理は、靴底を食べているようなもの、だそうで、きついですね。(アスリートにとってはそれが標準食らしいが)
ところで、重篤な機材偏重に陥った人の体験談として、「カメラじゃなく、写真の話をしよう」(嵐田大志氏、玄光舎)があります。要約すると、「写真撮影する時間よりも、次にどんな機材を買うかを考えている時間のほうがはるかに長くなった、投資も1000万円以上費やした、忙しいときや写真がマンネリ化しているときは機材を買うことで空虚感を埋めたいという気持ちはわかるが、時間と金は撮影に費やしたほうがよい」という論です。
嵐田氏の著書はそれぞれまた読んでいただくとして、私が着目する機材オタク要素は、機材評価に重きを置くあまり、「よい被写体、よい条件といった偶然性の高いものを機材評価におけるエラー要素として排除する偏向を持つに至る」というものです。
そうであるならば、機材オタクが撮影する写真が、結果として魅力に乏しいものに仕上がってしまうのも、やむをえない仕儀ではないか、というのが本日のオタク仮説でありまして、こうなると擁護もへったくれもないそのまんまです。もちろんこれはオタクの基本潮流のようで、撮影オタクが、おそらくありえないであろう「完全写真」を追求するのを裏返すとこうなるのでしょう。
つまり、「それがオタクというものだ!」ということ(^^)v
むははははははははは。
機材オタクとコレクター、また普通の写真人と違うところは、まだまだあります。
機材オタクたちは最新最高のカメラをゲットすることに努めていますので、これまで使っていた機材を
(慣れ親しんでいたであろう)、下取りにだして新しいカメラを購入されます。それで手元には常に新しい
カメラしかないのですね。レンズのほうは比較的長く使われるでしょうが、これとても高性能な新型が
出れば交換していきます。
なので同機種を複数台所持しているような人は機材オタクには当てはまらないでしょう。またカメラを
ぼろぼろにまで使う人も機材オタクではありません。このような人はコレクターか、もしくは本当にその
カメラが気に入ってしまった人です。
コレクターは基本的にカメラをモノとして考えますので、新しいカメラを買ったからといって古いカメラは
手放さないのです。
ではなぜ機材オタクの人達は惜しげもなく次々とカメラを更新し続けていくのでしょうか。
例えばイオス5Dから5Dマーク2へ、さらに1DXから1DXマーク2へ、また5DSへと。
まずひとつの理由として、それは自分がそのカメラを気に入っているからではなくて、自分が機材フリーク
の最先端を行っているという自己満足感からくるものではないですか。それはメーカーの指し示す商品予
定表のそれと同じあるわけですが、それに沿うことが最新流行だと考えているからという気もします。
普通の人であれば、ある時点で購入したカメラに自分が満足すれば次のメーカーの示す商品には無関心
であるわけですね。コレクターであればしばらく様子をみてこのカメラは時代を画した名機だからコレクショ
ンに加えるということをするでしょう。
そしてもうひとつの重要な理由として、新しいカメラは写真撮影へのカンフル剤になるからです。言ってみ
れば覚せい剤のようなものであって、衰えつつある写真意欲を新機材の導入で奮い立たせるのです。
機材オタクの方が比較的高齢者であるというのも理にかないますね。しかし若い人でも当然に効果があ
ります。いつも同じ機材では飽きが来るじゃないですか。
こういう具合に、自分の撮影能力を維持し高めておくというのが新機材導入の主な理由です。それ以外に
はないと考えますね。ここに機材オタク達の本質があると私は考えています。
ついでに言いますと私の場合は、画質も判明した中古の古い機材を入れても新鮮味はなく、ああやっぱり
こんな程度か、ですぐに終わってしまいます。(笑)
ここで21番の投稿でフェイクニュースがあったのでお知らせします。(笑)
・・・・写真撮影する時間よりも、次にどんな機材を買うかを考えている時間のほうがはるかに長くなった。
投資も1000万円以上費やした、忙しいときや写真がマンネリ化しているときは機材を買うことで空虚感を
埋めたいという気持ちはわかるが、時間と金は撮影に費やしたほうがよい・・・
これは機材オタクの本質を見抜いていない論陣であって、実際には機材オタク達は手馴れているので
カメラはスパッと買いますし、そして買ったカメラはばんばんと使います。新規導入によって撮影量はグン
と上がるのです。それはこの掲示板でも明らかではないですか。
もしこの著作者の言うようにカメラだけ愛でて写真を撮らないのであれば、これほどに安全なことはありま
せん。(笑)
ただフィルムカメラの時代はカメラ自体が魅力的なモノであって(特にメカニカルカメラ)、使わないのに買っ
てしまうということはよくありました。まさしくコレクションの類ですか。しかしデジカメ時代になるとカメラは
使わなくても劣化していきますので、使わないコレクションとしてのカメラはありえないでしょう。
そもそも機材オタクがカメラ本体だけに興味があるのではなくレンズにもオタクしているわけですよね。
S9000さんはカメラは不変だけどレンズは立派にオタクしているではないですか。(笑) シグマ135は素晴
らしいと日頃から言ってますし、タムロン600ズームを買ってから野鳥の撮影量はぐんと伸びたはずです。
つまり新機材は写真撮影意欲へのカンフル剤なんですよ。
閑話休題。
そしてここで私が言いたいのはどんどんとカメラを更新し続けていくと、自分の撮った写真はカメラという
実際のモノの裏づけのない、純粋な写真データというものになっていくということです。
データはモノではなく情報なのですが、そもそも情報はモノがないと発現するすることができません。モノ
に乗っかからないと見ることもデータ自体が存続することもできません。そしてその情報は発現するモノに
よって変化をしていくのです。
もちろん写真というものは長い間のスパンで考えれば、それを撮った機材などは既にこの世の世の中に
はなくて写真だけが歴史に存続しているわけですね。幕末写真や戦前の写真などはそうです。
しかしご自分の記憶のある10年やそこらで機材が何度も変わって行きそれで撮ったカメラがもう手元に
ないというのは奇妙な感覚にも襲われますね。なんか猛烈な時間旅行をしているような不思議な気にさ
せられますから。
既に生成したカメラを失った写真データはおそらくPCが主権を握るということになると考えます。
これは私の想像です。私の場合は過去に撮影した機材は手元にありますので。もっとも古いフィルム時代
に撮影したものは既にカメラはありませんが、そのかわりフィルムはあります。フィルムはデータではない
のでカメラがなくても独立して存続できるわけですね。
この場合、PCの存在意義は大きいです。私が20年前に使っていたPCは保存はしていますが既に使って
いません。もし20年前に撮影した写真データを現行のPCで再度現像してみることがあるとして、以前は
現像にもたもたしていたデータも、スッと現像できてカンくらうことしきりでしょう。あれっこんなはすではな
かったのにと。(笑) それからソフトも昔と今とは変わっています。
あっ、これらはRAWデータを保存していた場合ですか。JPEGに現像したものを保存しているだけだと事情
が変わってきますね。
「旅」板の掲示板を見ていて、○○さんの海外旅行などの優れた写真が多く掲載されているのですが、
改めて思うに彼は実に丁寧な撮影や写真をしているというのがわかります。観光地写真じゃないかと思
われるかも知れませんが、こういう写真こそ誰が見ても理解できるようにアングルや構図を考えながら
撮っていくというのは難しいんです。自分勝手な思い込みで見せる写真ではなく観る相手を思いやっての
写真であるというのがよく分かる写真となっています。
それで優れた写真人であるということなのですが当然に20年近くに渡る写真群なのでその使用カメラは
時代を追って変化をしていますね。当初はコンデジやAPSカメラだったものがフルサイズになりまた画素
数も上がっています。とにかくめまぐるしいほどの撮影をされていて国内ならずも海外でも多くの撮影をし
ていたんだとわかります。
とにかくこの旅板の写真で気がつくのは、撮影は丁寧で、且つ自分勝手な思いの写真を撮る人ではない
という印象を受けたということです。そしておそらく膨大な量の撮影をこの20年間に撮影されているという
ことです。そして撮影機材はめまぐるしく変わっています。
そりゃあそうだと言えばそのとおりですね。私にしても彼ほどの撮影量はしていないものの機材はめまぐ
るしいですから。ただ私の場合は撮影の裏づけとなったカメラは今も存続しつづけています。ですから
私の場合は、何というか時間旅行をしていないということになるのかも知れません。それは永遠に今で
あるわけで。ここらはちょっと表現が苦しいです。(笑)
正直いって機材をどんどんと更新し続けていく方の気持ちが私には分からないところがあります。
それこそS9000さん曰くの・・・機材オタクたちは滑って転んで、を繰り返しているだけではないのか?・・・
というくだりを想いださせます。モノの裏づけのない(既にそのカメラはないから)写真データだけの写真世
界であるわけで、そういう写真を短期間の間にやっていっていいものかどうか。それへの疑問は大きくあ
りますね。
写真撮影というのは具体的なカメラというものと密接な記憶の関連があるものでして、それが希薄な写真
行為というものは、これはどういうものなのか。どうも私には想像ができなくなっています。
人間に於ける知力の喪失や低下というものは、よく皆さんが誤解をされるかも知れませんが、学力や文
章を綴る能力のことではなく、人間の基本的に能力に関わっているものなのです。例えば悪いことをする
とか、嘘をつくとかもそうです。知力が衰えるとまずその方面に最初に現われるタイプの人がいます。
掲示板で言えば悪意のある捨てハン行為ですね。これは悪知恵が働くというよりも知力が減退してそうな
るというのが正しい見方です。
これがもっと進みますと自身をも不利益にする支離滅裂な言動や行為をしたりするわけです。そこまでい
かない段階だと、まず理解力や判断力が劣化していきます。この浅い段階だと自分で気が付く可能性が
あります。他者の目で見ればいつもきちんとやっていた人がだらしなくなったとか、いい加減な言動をする
ようになったという段階ですね。
こういう知力が減退していくというのは多くの原因があるわけなんですが、基本的にはオーバーワークと
いうことでしょうか。写真を撮りすぎるというのもそうですし、個々の段階でも種々の原因を探し出すことが
できます。写真画像というのは普通の文字データよりも格段にPC上で大容量な処理なんですが、おそらく
人間の脳内に於いてもそうである可能性があります。
写真もさらっと見るだけなら何でもないわけですが、じっくりと写真を見尽くすとなるとその心理的な負担
は大きいですね。特に自分が撮影している写真はそうです。
それからモニターでみる写真画像は視神経の負担が大きいんですね。モニターはプリント写真と違って
透過の直接光の表示ですので極めて眼の負担が大きく、その画面をみながら写真を読み解くというのは
最難関の類だと私は思っています。モニターで見る写真は強制的に視神経から脳内に押し寄せてくると
いうイメージです。暴力的且つ洗脳的です。
上にあげた彼の写真群にしても、投稿をされて随分と時間がたっているのに、やっと彼の人柄というもの
が写真によって理解できつつあるというわけで、それほどに写真を読み解くというのは難しいのではない
でしょうか。S9000さんのようにパッと見てすぐに分かるという写真の方もおられますけどそれとても本当
に分かっているかどうかは不明ですね。(笑)
これはS9000さんかAPSカメラの望遠レンズで撮ることが多いからですよ。
多くの機材を使うことはS9000さんがおっしゃるような、多大な精神的負担になるところがありますね。
これに中々ユーザーは気が付かないところがありそうです。それはひとえにカンフル剤で強制的に
写真を撮りすぎてしまうということですし、撮った自分の写真を見すぎてしまうからです。積み重ねると
膨大な写真を撮っていたということですね。
私の場合、これに早くから気が付いて、撮った写真は見ないという路線で行ってます。最近は特にそう
なってます。(笑) 撮影したデータはまるまるRAWデータのまま保存していますが、それを見ることは、
もうないでしょう。
これは写真をやっているようで実はやっていないということでして、そうしないと自分の本当に好きな撮影
ができなくなるからです。私の場合、関心はあくまでも撮影に注力していて後のデータには無関心です。
自分の撮影した機材には未練はなくあくまでも写真データに拘る人、そして私のように撮影データなんて
関係なし、カメラや今の撮影行為が大事だと考える人。
この2つの行き方を考える時、機材オタクなんてもう意味がないのではないですか。それよりも写真データ
の扱いのほうがもっと重要ですから。
写真は自分の写真を見ないと写真行為としては完結しない。と昔は言われてきました。つまり写真は2度
見るということで、撮影時に見て、撮った写真を再度見ることで、やっと写真は完結するというわけです。
しかし今の時代はそうは言えないと思っています。撮影時に1発で写真することが有利な時代になって
います。そうしないともう、デジタル時代では身が持たないからです。
前回の投稿でモニターの話をしましたが、モニターのランクをサイズを落とすというたけでなく、その表示
スタイルも私はカスタマイズしています。ディスクトップは無地でダークグレィにしてすっきりさせていますし
何よりもモニターの輝度は随分と落としています。プロモニターがダメだと感じたのはその肝心の輝度が
落ちなかったからです。
背景のディスクトップだけでなく全てのウィンドウもグレイでダークで目立たないように変更しています。も
う徹底的にそうしているわけで、とにかく眼を疲れさせない工夫です。視神経と脳を疲れさせない、これが
少しでも長く写真をやっていく秘訣だと考えてます。しかしそれでも写真自体はグレイにするわけにもいか
ずで難儀してますけどね。(笑)
捨てハン行為はこの掲示板の最大の恥なのですが、その捨てハンは機材オタクの人々から出てきたわ
けですね。それは何よりも知力の劣化から始まったと言うことで、機材オタクの行き方が間違っていたと
いうことも意味しますか。もちろん機材オタクの中でも捨てハンなんかしない人が普通なのですが、そうい
う人も存在していたと言うことです。
捨てハンが悪、ということに留まらずに、なによりもそれは知力の低下を意味してるわけです。
普通に写真をやっている人や投稿をされている人は、捨てハンもしませんし知力の低下も起きていませ
ん。ここは誤解をされないように。
そこで、じゃあ機材オタクとはそもそも何なの?ということになっちゃったわけです。どうすれば悪い機材
オタクになれるのか。また機材オタクから脱却するにはどうすればよいのか。どういう人が機材オタクにな
るのか。そういう一連の問題をこの場を借りて考えてみたつもりです。
そもそも最初は些細な好奇心から始まりました。人よりも優れた機材を使いたい。その程度だったでしょう
ね。しかし優れた機材はカメラだけでなくPCにも毒素を内蔵していたのです。その毒素には全く思い至ら
ずに天真爛漫に不用心に使い続け、その毒素というかカンフル剤の副反応に気が付かないままに今に
到ってしまった。そういうことではないでか。
写真人としては未熟だったとしか言いようがありません。
旅板の彼も、当初のカメラはコンデジや初期のデジイチであって毒素などはほとんどありません。しかし
次第にカメラは高性能なものになり毒素を含んできます。フルサイズになり高画素のカメラなりました。
その毒素を表現できる高速PCや高性能な大型モニターになっていったことでしょう。
この旅板は20年間を短時間に凝縮してくれているので分かりやすいですね。
このような話は写真掲示板でしか話題にできません。検索で「写真 掲示板」と打てばこのフォトXP写真
掲示板が出てきますが、なにもこの掲示板が有名というのではなくて、最近は「写真投稿」という言葉に
変わってきているのであって、今では写真は投稿サイトでするものなんですね。
有名なのがPHOTOHITO(フォトヒト)ですが、これは価格コムのカメラ部門の掲示板が、写真投稿サイトを
作って、多くの個人写真ブログをしたい方の受け皿となっているようです。なかなよくで来ていて充実して
いますね。
しかし本当に真剣な写真の問題を話題にしようと思えば限界があります。写真投稿サイトは基本的に写
真は善であるという前提に立っているわけで、写真はカメラは危険だ、という話はできません。(笑)
この掲示板が廃れ気味となっているのは、そのひとつの理由として捨てハン問題があるかもしれません。
大手の投稿サイトで捨てハンなどはできませんからね。しかしなからこの捨てハンという存在自体が現在
の写真の大問題を静かに炙り出しているというところがあり、ただ駆逐すれば済むということではないと
私は考えています。
なぜ彼が捨てハンのブロになったのか。捨てハンで飯を食うようになってしまったのか。(笑) これを考え
ていかないと本当の写真の解決とはなりません。幸いにこの掲示板は全ての投稿が保存され、捨てハン
氏の写真やコメントの投稿も全て保存されています。捨てハン語録だけでなくて、捨てハンに紅衛兵した
コメントも。捨てハン問題を研究するには絶好の材料がそろっているんですね。
誤解を恐れずに言えば、捨てハン行為も広い意味での写真行為のひとつであり、投稿の一形態という
見方を私はしています。写真行為の現象の中のひとつの要素となっていて、いわば捨てハンは警告と
とるべきではないでしょうか。
写真を不用意に撮りすぎるなよ、そういうことをすればどうなっちゃうのか。そういう裏掲示板というか、
写真の負の状態を敢えて買って出てくれているわけでして、皮肉ではなくて率直に言っても価値があると
みています。
彼が写真投稿しなくなって時間が経っていますが、それでも捨てハンでコメントで掲示板に参加されて
いるところをみると、やはり写真が好きなんだなって思いますね。
捨てハンは、要は下手に写真を頑張れば頑張るほど毒素によって知力の低下をもたらしてしまうというの
が、本筋の結論だと考えています。多種遍歴機材オタクだけが問題ではなく、特定機材一筋で頑張っても
やり方を間違うと知力低下になりますからね。
先に、写真人としては未熟だったとしか・・・と書きましたが、写真のことは良く知っているつもりだった私
ですら危うかった時があり、一歩間違うとこの私も写真の沼に沈んでいたことを思うと、決して他人事では
ないのです。私にも2度の危機があり、最初はカメラの漏洩電磁波で、2度目はVDT症候群ですね。両方
とも日頃よく知っているつもりでしたし、まさか自分に降りかかるとは思いもしなかったですから。しかし
既に知っていたからこそ素早く対処出来たのだと思っています。
漏洩電磁波もVDT症候群も従来の写真にはない概念でして、PCオタクや健康オタクでないと知らないも
のですが、私はパソコン趣味から入っていましたので知っていたつもりでした。ですから写真だけしか知ら
ない人には、何のことかすら分からないでしょうね。
しかしS9000さんが指摘していたように現在の写真はデジタルでコンピューターですから知らないではすま
ない時代になってます。
最近、私の携帯が不本意な動きをするようになって、それで店舗に持っていっても埒が明かなかったんで
すが、携帯には無関心だった私もこれは要するにアンドロイドOSの問題じゃないかと悟り、徹底的に設定
を見直すと直りました。昔のトロンOSでは考えられないことも複雑になったOSでは起こりうることだと知っ
たわけです。10数年パソコンばかりをやった甲斐があったみたで、自分でできることは可能な限り自分で
やってみたいですね。余談でしたがコンピューターやネットワークの知識は現在では必須だと感じました。
私が90年代にパソコンをやった時代から比べたら現在のコンピューターは随分と進歩しています。当時、
私は、このパソコンというコンピューターが人類を2分すると考えました。それが使える人間と、分からなく
てコンピューターに使われる人間とに。
そしてこれがあれば後進国の中国は大きく発展を遂げるだろうと。
この2つは見事に実現しています。それはICT企業の世界制覇と世界的な所得格差の増大に。また中国
の脅威となって現われていますから。
そして現在のコンピューターの発展はパソコンがもっと小さくなり一人一台のモバイル化をしていることで
す。ここでもう一度予言をしたいのですが、コンピューターのモバイル化は人類の進歩発展を止まらせる
だろうということです。歴史と進化の退行です。モニターやスクリーンの弊害が全面的に出でくると思い
ます。それが知力の低下を集合的にもたらすのではないですか。
今回のコロナウイルス騒ぎや米国の大統領選を見ていればよく分かりますが、すでに人類は知力を喪失
しているとしか思えません。知力の低下というのは何も個人だけに起こることではなくて、集団的にも歴史
的にも起こりうるものなのです。
人類が知力を喪失すると間違いなく歴史の発展は止まり現状を維持することすら困難になります。これに
は歴史的な実例があって。過去の中国史では王朝が発展して大きくなりすぎると人口崩壊をするんです。
人工崩壊というのは歴史用語ですね。人口が半分とか1/3になっちゃう。天候不順の飢餓とか疫病蔓延と
か戦争や内乱とかですね。
中国はたぶん知力総体に限界があって、それでそういう歴史を過去に何度も繰り返した来たと思うんです
が、今後は世界的にそうなる可能性があります。
もちろんコンピュータ化でも影響を受けない人々はいるんですが、大部分の人類は自分より賢い機械にし
てやられます。まして子供たちはそうです。
かつて白人の植民地化によって支配されていた人々は自分たちは白人には敵わないと諦めたわけで
す。それを覆したのが日本であるわけですが、それと同じように人類の大部分の人々は機械の支配を受
け入れるだろうと思います。そうなるともう発展はできませんね。
しかし同時に未来の日本の果たした役割を果たすべき勢力も出でくるとだろうとも思ってます。
コンピューター問題は、大きな時代の変化の狭間で出現する狭義な時代であり、歴史の本質には関係し
ないと考えています。我々が今の電卓や自転車を使いこなす感覚でコンピューターをなんなく使える人類
が登場するのではないですかね。
簡単なことですが、コンピューターもモニターやスクリーンを通してみるから問題なのであって、これが紙
にプリントだと何も問題は発生しません。少なくとも高知力の人々は。知力劣化のコンピューター問題は
直接光方式ではないモニターが発明されれば解決すると考えています。
余談ですけど中国人に知力発展に限界があるというのは、もしかすれば漢字が原因かもしれません。
中華料理だという人もいるみたいですけどね。(笑) 漢字は実は幼児が覚えやすい字らしいです。象形
文字ですので表音文字よりも歴史的に古いのです。文明初期から使われていたんですね。
それで中国人は物覚えは早いんですがその後が続きません。漢字だけだと高度な文明を維持すること
が難しいのではないですかね。非常に複雑で論理的な内容を表現しようとすると表音文字がないとでき
ません。英語がそうですし、カナがある日本語もそうです。
日本語は表意文字の漢字と表音文字のカナとでハイブリットな言語ですが、これが実はメリットになって
いて、それが日本人の初等教育が優れていて学力も高いという秘訣になっているようですね。
日本語にはこれからコンピューター言語が付け加えられないといけないなと思うんですが、これは基本
英語です。日本語と英語は文法が違うので日本人はなかなか英語が覚えられません。しかしこれから
本格的に日本人も英語を覚えてハイブリッド化していかないといけません。日本語の文法配列を変える
ことすらやっていかないといけないかもしれませんね。
最近の若い歌手の歌い方をみていると日本語が英語化しているみたいですが、あれは音声だけ真似て
いるんですね。しかしこれからは文法すら変えて、英字も漢字と同じようにセンテンスに挟み込む、という
具合になるかもしれませんよ。
それにしても日本語の中の漢字はメリットが大きいです。私が思うに英語の中にこそ漢字を入れるへき
ではないですかね。(笑) そうすると英語を見ても漢字だけ読めば大体のことは分かりますから。
漢字といえば現代の簡体字は簡単になりすぎハングル文字に近くなって本来の漢字の効用が薄くなって
います。台湾の繁体字は戦前の日本の漢字と同じですので漢字らしいです。なお漢字は書く必要はなく
読めればいいんですね。パソコンの出現で漢字は書けなくとも(私です)、読めるだけで漢字を表すことが
できるようになりました。良い時代になったものです。(笑)
「収集オタク」「コレクターズアイテム」「グルメ」「変態的バイアス」「ズンレ、ラメカ」・・・
いろいろとあるものですね。(むは・・・)
とにかくこれで捨てハンという、S9000さん曰くの難題(過去にそういう表現があった)が解決されたかと
思います。またこれは私にとっても難題だったんですよ。しかしS9000さんの適切な助言があればこその
結論ではないかなって思ってますね。
しかしながら私は捨てハンは積極的に、写真沼に沈んだ写真同士からの警告であるととらえるようにし
ています。その声を無視することはできませんね。
ポートレート板
https://photoxp.jp/pictures/217241
・・・念入りに行うのは 2021/7/5 21:11 モニターのキャリブレーション(と唐突なコメントなり。)・・・
この2番に彼からのヒントが隠されています。やはり肝心なものはモニターですかね。キャリブレするような
高級なモニターは使うべきじゃないというふうに私には読み取れます。どうやら無意識にも御自分で察知
しておられるようです。
しかしモニターやPCという機材だけでなく、それを使うノウハウというものが一番に大事です。プロの方は
高級な機材を難なく使いこなしています。カメラも高画素高画質です。しかしそれで知力が低下するので
は仕事になりませんね。アマチュアとは何かが違うのです。とにかくアマチュアは無駄が多いですね。
時間の大切さが分かっていません。
そういう私も危うかった訳でして人様のことは言えません。しかしあの知力低下を起こしたシグマ危機
から私は時間の大切さや無駄な労力をしないというように変えました。そもそも私は撮影をするのは大好
きですが、写真を人に見せるのは好きではありません。めんどくさいって思ってますし。ちょっと無理をして
写真投稿をしていたのがシグマ危機だったわけで、その反省もありますね。
しかし写真で表現をして人様にみてほしいと思っている人は多いでしょう。S9000さんなんか写真もコメン
トも両方いけてますね。(^^ゞ
最後に余談ですが、群馬県と長野県は内陸県です。海から遠いと、どうしてもコミュニケーションが苦手
なところがあるようです。それはご本人たちが一番よく知っているわけでしてね。
しかし写真もまた、表現やコミュニケーションであるわけで、言葉と違って読み取るには大変難しいのです
が、気持ちを人に伝えることができます。
※S9000さん、これで終了です。
ほい、こんばんは。コメントおつかれさんでした(^^)v
まあ、19,20,22番のコメントは、「オタクとしてのアナフィラキーショック」というところでしょうね(*'ω'*)
ところで、考えてみれば、私は2016年あたりから、少なくとも毎年1本以上はレンズを購入しているので、そりゃレンズオタクと言われてもけっこうですよ(^^)v私はそもそも複数分野のオタクなので、オタクであることに喜びを感じていますし、オタクとしてのプライドも厳しく重んじるところです。
まあkusanagiさんのコメントからは、「お前程度でレンズオタクを名乗るな!」という揶揄も感じるところで、それはそれでやむをえません、オタクとはそういうものなのですから。
それに関連して、嵐田大志氏の著作とその論旨を紹介するとき、私は「機材偏重」と書きましたが「機材オタク」とは書きませんでした。これは別にトラップではなく、この方の著作を読む、あるいはそういう著作があるという情報自体に接しての反応によって、その方のオタク度数がいかほどであるかもわかるだろうと考えたからです。
それはオタク仮説「オタクとはオタクを序列化するものである」であり、この種のオタク仮説は個別に検証していきたいと考えています。
ちなみに、私は「カメラじゃなくて、写真の話をしよう」をひととおり読み終えて、「あれ、カメラの話もしているじゃないか」と感じました。ちといぢわるな感想でつね('◇')ゞ
タイトルにとらわれることなく読むべき示方書であり、また嵐田氏の撮影レベルは、相当に高いもので写真集として眺めても爽快な感想を持つのみです。
捨てハンはこの掲示板の文化のようなもので、私が参加した2006年にはすでに捨てハンを随所で見た覚えがあります。一番激しい捨てハンは、◎◎氏ではなく、たしかリコーのカメラに否定的な発言をした人に対する攻撃捨てハンでした。捨てハンには一人一人、癖というか署名のようなものがありまして、そこを観察するのもだいご味であるし、ちゃんと対策?としてこの掲示板でもHNクッキーが動作していて、そのトラップに引っかかる例もあります。
あと、オタクの置き換え表現として「機材に関する変態的バイアス」というのがこの掲示板でも紹介されていた、と21番で書きましたが、それはこの方からの拝借です。
https://photoxp.jp/pictures/128106
うむ、この投稿者氏からは、kusanagiさんを上回る機材オタクのにほいがしますね(爆)
まあ、この128106番でも捨てハンが見られるわけで、◎◎氏の捨てハンがここ2年ほどということはないでしょう。ここにも捨てハンの署名、というものを眺めることができるように思います。
で、オタク仮説はいろいろ提案したのですが、kusanagiさんがもう終わりにしたいとおっしゃるので、この仮説の回収、ぢやなくて検証は、地道に別に行っていくことにしましょう。オタク道はるか遠く、というやつです(^^)v
ああ、オタクって、本当に素晴らしいですね・・・