SIGMA Photo Proソフトウェア 作例

標準ズームレンズ

標準ズームレンズ

標準ズームレンズ、これはまこと便利なんですが、その便利さに罠があるのだ。 という気がしています。(^^; 動画撮影ではズームは撮影中は、ほとんど使わないそうです。映像を見る側 にとって、違和感が強すぎるからです。ズーム機能というのは人間にそもそも 備わっていない機能だからです。 (動画のズームは一旦撮影が終わってから切り替えて、次の撮影へ) (厳密に言うと、眼にはズーム機能があります。水晶体のレンズ厚みを変えるの です。老眼になるとその機能が衰えます。) 一般的にズームではなく単焦点レンズを使いなさいと言われる理由に、小手先 の構図ではなく自分の足で稼いだ構図をすべきだ、とよく言われるのですが、 それが本当かどうかは私も知りません。(^^; 私が考えている標準ズームレンズの弊害とは、完璧な構図、じゃない、迷った末の 過ぎたる構図になってしまうことを懸念するからです。つまり蛇足構図ですか。 喩えてみれば、標準ズームの構図はいじくり回した加工食品のようなものです。 新鮮さが失われ、一見キレイかもしれないけど魅力がなくなってしまった写真となる からです。 フレーミングという構図もまた、画像処理と同じで過ぎたるは及ばざるが如しと なってしまうと考えます。とにかく撮影の構図は、迷わず一瞬で決めるべきである。 と私は考えるのですが、あーでもないこーでもないとファインダーに顔を埋めて みたところで、ますます悪くなるというのが落ちでしょう。 そう考えれば、ズームレンズを使ってもズーミングに迷わない、というか、そもそも あまりズーミングを多用しないで使うことでは、その弊害はごく少ないと思ってます。 24-105ミリはf4ではなかったですか? 24-70ミリはf2.8です。この2つのレンズの 違いは開放f値が違うということ。それが一番です。 標準ズームの便利さとしては、24-105や24-120というのがホントに便利ですね。 とは言え、最大望遠側が本当に使えるかどうかを問うと、かなり怪しいところが あります。 その点、24-70の70ミリ側は実質使えるミリ数です。ですからミリ数は置いといて、 大きく違うのは開放f値であるということ。それからズームミリ数が狭いほどレンズの 画質は良いのだろうと思ってます。 私は、古いレンズですが、EF28-80f2.8-4とか28-70f2.8を使ったことがあります。 とくに後者のレンズは気に入っていて何度も整備に出しました。最後にはレンズの バルサ切れを起こしたのですが、かなり高額な修理代で直したことがあります。 高知日高で使ったレンズは28-70ですから、そのレンズが私のお気に入りだった というわけです。色は濃くでますよね。 今の24-70は発色は薄いと思います。それは最近のレンズの傾向だと思うからです。 その分、解像力が良くなっています。 しかし優れて良いレンズであることには昔も今も変わりありません。 それを言えば24-105だって優れたレンズです。要は開放f値とミリ数の違い。 どちらを選ぶかですねー。(^^; この先、今のレンズに飽きれば、24-70に乗り換えても 面白いでしょう。

HAIKU

HAIKU

こちら、最近は写真を撮っても、もう撮りっぱなしになってしまって、いちいち 写真画像をバソコンで見直すことが面倒くさくなっています。 パソコンの前に座るのはメディアからデータを移行するときだけって具合で。(^^; もっとも私の場合は、もともとが撮りっぱなしでやっていたので、元に戻っていく なんですけどね。 写真撮影と、その後工程の写真処理(raw現像から、写真の閲覧と選択、 そして画像調製等)というのは、撮影とはぜんぜん別の世界と言ってよいわけで、 私はそれが大の苦手です。何よりも時間がもったいないという気もするし。 写真の撮影はやはり楽しいですね。昔とは撮影の仕方とか撮影対象は随分と 変わってしまったのですが、撮影の楽しさだけは相変わらず変わりません。 やっぱり、写真は撮影が第一だと思ってます。 撮影だけできれば私は満足で、後で自分の写真を見て、どうのこうのという趣味 はむかしからありません。 最近は県外の撮影が多くなりました。本音を言うと撮影というより、単純にいろんな ところを見てみたいというだけなんですが、写真はついでに、といったところです。 写真はその記録でしかないので、いい加減な撮影しかしていないのです。 自分の撮った写真を見て、自分の記憶にある自然のダイナミックな空間が全然 撮れていなくてがっかりすることが多いですね。写真の限界を感じてしまって、 写真というのは、所詮は偽物というか、代用食という気がしています。 とは言え、人様にこうこういう風景を見たよって伝えるには写真は手っ取り早い 手段なのは事実です。 ところで自分の見た光景を写真ではなく、それを俳句で表現することも可能です。 新聞でスウェーデンのHAIKU会の記事が載っていましたが、写生句に徹すると 書かれていました。日本の現代俳句は自らの心象風景とか心の動きなどを詠みこむ のが普通ですが、スゥエーデンの場合は自然の描写に徹するということらしいです。 古典的な読み手の感情を抑制した叙景をストレートに詠むということでしょうか。 朝もやに 島々をなす 森の頂(いただき) 刑務所の跡 壁を登りつぬ 野バラかな 夕なずむ湖 魚を叩く(はたく) かもめ口(くち) 飛行機の音 空は冴えて 靴を履かぬ児ら 俳句というのは、パッと詠んで、それで終わりです。推敲というのはありますが、 もう口に出して詠んでしまえばお終いというわけです。この潔さは写真の撮影にも 通じるものがあります。 写真撮影は歩くということと同義だと考えているのですが、こちら最近は遠隔地 への撮影が多くなり、車の移動に時間が取られてしまって、歩きの時間が不足 しているなあと感じています。 時間は限定なので、出来る限り現地で自分の脚で歩きたいと願っているのですが 難しいところがあります。 撮影地は出来る限り、観光地ではない、人のいないところを目指しています。 人の集まるところでの撮影は、どうしても観光写真になってしまい面白くあり ません。むしろ人がいるところでは、その人々を撮れば面白いでしょう。 フォトXP掲示板の写真には、撮影時のエピソードが欲しい、それを読みたいと いうところがあります。写真の画像としての評価などは、もう皆ベテランなので 語られても白々しいところがあります。 それよりも苦労話や楽しい思い出を知りたいですね。 この掲示板、数多くの掲示板がありそうですが、そのほとんどはメーカー別カメラ板 なので、カメラ機種に拘らない自由な掲示板は少ないのです。 このメーカー別掲示板のやり方は、もう既に古くなっていると感じています。 それにカメラ機種別で探そうと思えばすぐにできるシステムになっていますので、 敢えて最初からメーカー別掲示板を謳う必要はないのではと思いますね。 個別掲示板の数は多ければ多いほど面白いかなって考えています。 いろはにほへと・・・と50板あっても良いし、さらに投稿時にカテゴリーを自己申請 するという方法もあります。そのカテゴリー分類とは、花、動物、自然、乗り物、 建築とか、諸々の分類ですね。 とは言え、根本的な改革は難しく、とりあえずはメーカー別ではない投稿板を 泥縄式に増やすだけでもよいかなって思ってます。 とは言え、ただで利用させてもらっている身には何も出来ませんが。 このアサガオの写真は、ピカサ・ソフトでスポット的に色を残しました。 少しでも色があればそれは黒白写真とはなりません。カラー写真の部類になって しまうのですが、まあこういう小手先で楽しむのもアリかなって思います。

チーズと乾燥納豆

チーズと乾燥納豆

モニターを24インチすら23インチに変えたのは正解だったと思う。 たかが3インチの差かもしれないけど、面積に直せば大きいのだと いうことです。 テレビのモニターだと24インチなど小さい方になるのだど、テレビ動画 とパソコンの静止画像とは、本質的に脳が受け取る情報の仕組みが 違います。静止画像は、凝視、見つめるという動作が伴うからです。 とくに写真画像だと、ピクセルのひとつひとつまで眼と脳は画面に 固定されて連携して脳内処理をしているからですね。 23インチよりもっと小さい22インチとか20インチだともっとよいのかも 知れないとすら思います。 カメラに関して、最近は益々シグマのコンデジがメインカメラとなって しまって、もうデジイチなど出番がなくなってしまっている感じです。 以前、デジイチの電磁波障害として、内臓モーターのパルス波形が 問題なのではないかと書いたわけですが、最近はかなりその仮説に 確信が持てているようになってきました。 パルス波形、棘波は、脳内を直撃するように思えて仕方がない。 これはただの電磁波とは次元が別なのだと。 普通の電磁波障害は、主に身体にかかってきて体調を崩したり体力 が低下するだけなのだけど、棘波の脳刺激はそれとは全く違う。 正常な判断力や注意力や記憶力というものを阻害する。人間、これを やられると真っ当な運勢をつかみとることができなくなるのだ。 僅かなことなのだけど、運勢の仕組みからすれば大問題となる。 モニターの話もしたわけだけど、こちらの方は脳内ホルモンを阻害 するわけで疲労の類だから、これもまた別の話となる。 ちなみに職業でモニターを見つめている人は、あまり大きなモニター を案外に使っていないし、敢えて高コントラストのモニターも使用して いないように思える。防衛本能なのかもしれない。 最近は、ちょっとチーズの摂取を心がけている。というか、ヨーグルト とかヤクルトをほとんどやめたので、その分はチーズというわけ。(^^; プロセスチーズは加熱して酵素で固めているので、生きた乳酸菌 は少ないと言える。 これは納豆を食するに、加熱して料理として食べるのと理屈は一緒と いうこと。過剰な発酵菌を体内に入れ過ぎないということかな。 生きた乳酸菌とかビフィズス菌を腸へ送るとか、これはやたら言いすぎ ているように思える。考えてみれば腸内細菌は各自の腸が自ら環境を 整えて保護すべきものであって、やたら体外から取り入れるものでは ないということなのだ。 それでヨーグルトを食べ過ぎて、返って腸をダメにしている場合が多い という現実があるようです。 納豆に関しては、乾燥納豆とか干し納豆とかいうのがあって、一度 食べたけど、これが美味かった。多分、納豆菌は大分抑えられている のだと推察する。 http://www.tengunatto.com/g-hoshi.html 茶請け、酒の肴に最高だと。(^^; チーズはこれ。ベビーチーズ。小袋なので何時でも何処でも食べられる。 むろん酒の肴にも最適。 http://www.qbb.co.jp/item/item.php?mcid=1&scid=100 納豆にしてもチーズにしても、タンパク質が豊富でしかも発酵菌の働き で消化のし易い状態になってます。 早速に、乾燥納豆をアマゾンで注文する。けっこう高いな。スーパーの 生納豆3パック100円とはいかない。(^^;

紀の川

紀の川

センサー受光部分の増幅装置はマイクロプリズムとかですね。裏面照射型も そういうたぐいでしょう。 光を電荷に転換した後は、電気ですからオーディオとかと同じだろうと思います。 技術は基本に忠実というのが一番ラクです。アドバンテージがありますから。 車だって排気量が大きいのが絶対的に有利ですからね。 マイクロプリズムといえば、シグマSD9はそれすらもなかったのです。センサーピッチ、 つまりセンサー1画素が大きかったからです。テクノロジーというのは色々と付加物 をつけていくと次第に無理が出できて不自然になります。自然じゃなくなってくるん でしょうよ。 エプソンRD1はソニーとニコンが開発したCCDを搭載しています。 APS-Cサイズ600万画素。 これを同社は、ニコンですが、他のメーカーにも売ってよいとソニーに言ったわけですね。 それで、キヤノン以外の大体のメーカーはそのCCDを採用したカメラを発売しました。 あのCCDは、ライバルがフィルムだったんです。今じゃ考えられませんが。 オリンパスE-1は、ソニー製CCDじゃなく、コダックのフルフレームCCDを採用しました。 フルフレームというのはフルサイズの意味じゃなく、CCDの種類です。 フレームトランスファー型CCDというべきですかね。普通のCCDに比べて開口部が 大きいので発色は豊かでした。 とにかく、昔のカメラは基本原理に忠実で万事、余裕がある設計をしていました。 いっぱい良いところがあったんですが、それを画素数競争ということで台無しにして しまったところがありますね。 プロの方はともかく、アマチュアがそんなに高画素カメラを欲しているとは思えません。 実際、高画素の威力を活かした撮影をしている人など少ないですね。 むしろ、失った部分が大きくて、それでアマチュア写真としては高画素ブームは 写真の劣化を招いてしまったといえなくはありません。 デジタルカメラが再び低画素に戻るということは普通では考えられません。 進化というのは一方方向なので、一旦高画素化すれば元には戻れないのです。 もう皆さん、低画素の昔のカメラは捨ててしまったでしょう。中古で探せば あるにしても、わさわざ買い直そうという人はいないですね。 それで、私は古い低画素カメラを捨てずに持っているんです。 いつかは低画素カメラを見直す時がやってくるだろう。当時からそう考えていた ところがあります。もちろん、これは個人的な意味での見直しなんですが。 しかし今の高画素カメラでも、ある程度は低画素で撮影することができるカメラも あります。低画素RAWとしたところで画質は良くなりませんが、確かに低画素で 撮影することは可能です。クロップ撮影などもそうですね。画素数が落ちますから。 こういう場合には、画質うんぬんではなくて、低画素という写真自体の意味を問う ということであると考えています。 そう、撮った写真をトリミングしても同じ効果がでてきますね。 低画素カメラというのは、たとえて言えばスピードのでない車です。最高速度も 低く加速も落ちる車ですね。そういう車の何が面白いのかと問わないでください。 とにかくそういう車は安全なのです。無謀な運転をすることがない。まずそういう 気にはならない。スピードがでないので運転も気楽。ゆっくりと走って風景を楽しむ ことができる。 しかもちゃんと目的地まで快適に行くことができる。それに何の不足がありますか。 ドイツ人と日本人は似たところがあります。良い工業製品を作ること。それと 世界の覇者にはなれない2流国であること。(^^;  もちろん一流国は米国とかイギリス。かつてはスペインとか。ソ連も一時は世界 の半分の覇者でした。 そういう政治的、軍事的一流国では、ドイツも日本もないということです。だからこそ 優れたモノ作りができるんじゃないでしょうか。 ドイツも日本も兵士は強いのですがトップが司令官がダメで凡庸で、それで戦争を すれば負けるんですね。ドイツとニッポン。立派な地域大国ではあるけれど世界の 覇者には向いていません。(^^; 写真は紀の川。 驚くほどに四国の吉野川に似ている。川が流れている方向は東西逆だけど。(^^; 紀の川は紀伊半島の巨大山塊と中央構造線の和泉山脈との間に流れる川。 吉野川は四国山地と讃岐山脈との間に流れる。 地形的成り立ちは同じで、紀の川の川沿いを走っていると、吉野川を走っている ような錯覚に何度も囚われました。 この写真。川は手前から向こうに流れているのだけど、吉野川だと逆になる。 夕日の撮影です。 こういう大きな風景の写真記録には高画素カメラは確かに向きます。あくまでも 記録という観点からの話ですよ。 (メリルだったらもっとシャープに写っていたでしょう) 大方のアマチュアは記録という写真を撮らなくなって久しい。証拠写真とか言って 逆に卑下したりする有様。 しかし写真とはもともと記録写真から始まっていたはずです。自分の目で見て、 さらに記録として撮っておきたいということで。それが何時の間にやら写真を撮る こと自体が目的となってしまった。それは本末転倒というものじゃないですか。

紀州

紀州

zzrさんが青森に隠れてしまったのを良い機会として、私も投稿のペースを 落としてみようと考えている。 デジタルカメラ、デジタルツールはできるだけ、ひかえるのが適切だろうと、 最近はこの身を持って考えるようになった。頭だけは以前から知ってはいたのだが、 自分の身体性をもって全身で考えなければ、本当には身につかない。 3ヶ月間写真撮影を止めて、再度撮影は復活したわけだけど、以前とはまるで 違う撮影方法をしているのだ。 この休止期間とそれに続く改善は、自分の身体に大きな変化があったと思える ようになった。それだけでなく今までこんな簡単なことが分かっていなかったのか? というような「気づき」が急上昇で芽を吹いている。 ここ数年間の生活上の過ちが、すっきりと明確に自覚できるようになった。 小さな変化が結果として大きな違いを産んでしまうのが、「運」というものだ。 運を左右する直接の原因は日常の細部に宿る。これは間違いがないことだ。 デジタル写真の手習い。 これはまだ始まったばかりだ。たかだか十数年に過ぎない。 またプロが最先端を行っいるとは限らないのだ。案外に我々自由な素人がその 最先端を走っているのかも知れなくはない、と言いたいところだね。(^^; もう収まったのだけど、ここしばらくの間の、掲示板群における多くの感情の 取り留めのなさには本当に驚いてしまった。一体どうしてしまったのだろう?と 不思議に思うほどの有様だったと思う。 デジタルツールは人間性の劣化を誘う、とはよく言ったものだ。別の言葉で言えば 「運」を落とす。大したことじゃないのだけどそれが積み重なると最後は大きな 結果になる。 写真に関して、少しは良いことを書かなければならない(^^;、とすれば、私もただ 写真を止めていただけでは「気づき」は現れなかったということだ。 休止に続く撮影の復活という身体運動に於いてそれは現れたのだから、やはり 写真撮影という行為は、すばらしいものがあると思う。 このことは強く強調してもいいと思う。 写真を撮影するいうことはルーティーンの身体運動ではなく、新しい視点で持って この世界を新たに見るということだから、身体だけでなく脳にも良いはずなのだ。 そこが決まりきった散歩道とは違う点であるのだろう。 写真は小さな雑多な発見の繰り返しだ。とにかく発見のない写真はつまらない。

コスモス

コスモス

歌舞伎役者が大見得を切ったような写真じゃなく、ひっそりと目立たぬ写真を 目指したいと思ふ。 それはハレの写真じゃなくケの写真だ。日常の何でもないような光景を写真と して写し留めたいと願っている。 ところで、VWの排ガス不正問題は、実際どういう状況で起こったのだろう。 もちろん経営者が直接に指示したわけではあるまい。上司の、ひいては 経営者の圧力に負けて設計現場の一部の、先の見えぬ専門設計者がやった ことだろう。 問題は、発覚するまでに度々不審な噂が飛び交っていたはずだが、経営者は 見て見ぬふりをして原因を追求もせず頬かむりをしてしまったことだ。 その時点で経営者は失格というか犯罪性をも問われることになるはずだ。 バレても俺の責任じゃない。現場の犯罪で済むだろう。俺は逃げきれる、と、 経営者は考えていたのかもしれない。 もしかしたらVWの暖簾にキスが付くことなど俺の知ったことじゃないとも 軽く思ってたのかも知れない。 結果はVWにとどまらず、ドイツ国民の世界への信頼性まで発展してしまって いるのだが、ことの大きさがまるで自覚できなかったという、なんとも情けない 結末となってしまった。 案外と、ドイツ人というのはそういうところがあるのかもしれない。 ホロコーストしかりと言えば比較対象が違いすぎると言われるかもしれないけど、 なにかそこに共通するドイツ人の弱点がそこにあるのではないかと思ってしまう。 そう考えるのは私だけではないような気がする。 これはドイツ人のことだけを言っているのではない。日本人にも、我々市井の 輩にも共通する事柄なのだ。傲慢という弱点を抱えているのが人間という ものだ。そして傲慢さは真実を見えなくしてしまう。