ペンタックス K-5 II s 作例

2012年10月19日発売

K-5 II sの仕様

カメラマンはいつまでも馬鹿をやってはいけない

カメラマンはいつまでも馬鹿をやってはいけない

カメラマンはいつまでも馬鹿をやってはいけない。 なぜならば、その馬鹿癖とは、結局は透過直接光という電磁波(広義の意味で、可視光線も電磁波のひとつだ)の 悪影響の結果に過ぎないのだから。つまり可視光電磁波弊害です。 これに気が付いた掲示板の投稿者は多いです。私もやっと遅ればせながら分かったに過ぎません。 可視光弊害はデジカメだけではなくてパソコンやネットでも同じく悪影響がでてきます。当然にスマホでも。 要するにモニターを持つ電子機器(その最右翼は古くはテレビだろうしパチスロなんかもそう)は、人の運勢を停滞 させます。人生時間の無駄使い、つまり消尽をさせるのです。しかも当人にはそれに気が付かせずに。 これを名付けて、私は浦島太郎シンドロームと言うことにしています。 今現在、一時的にPCモニターを黒白表示にしていますか、エヌビディアのコントロールソフトでやっています。 エヌビディアといえばグラフィックカードのメーカーですから、そういう黒白表示の要望があるということを 分かっていたわけですね。仕事で長時間作業をする人は、こういう問題に敏感なはずです。それでその要望を 汲み上げていたというわけでしょう。 ウインドウズ10や11だとOSからもできるようです。なんにせよ、しばらく黒白モニターでやっていこうと思って ます。いろいろと知ることができるのではないでしょうかね。

黒白写真の真の意味

黒白写真の真の意味

私がモノクロ写真撮影をするようになってから、もう2年近くが経っています。 当初の切っ掛けは単なる思い付きで、ペンタックスのモノクローム専用機を購入したことから始まりました。 しかしこれでモノクロ、黒白写真にどっぷりと嵌ってしまったわけです。以来、殆どの撮影がモノクローム撮影です。 もうカラー撮影に戻ることはないでしょう。自分には黒白写真が似合っていると思っています。私には黒白写真で 十分だと考えていますし、それで必要にして十分だということです。 黒白写真にしてから、まず機材への関心がまったく無くなってきました。と言いますか、次から次へと機材に欲望が 出てくるという方が異常なのであり不自然だったわけです。 私が20歳代に黒白フイルム写真で撮影し自家現像をしていた頃は、その機材は最低限のものでやっていました。 カメラが2台、レンズが数本というところで、それ以上欲しくもなかったし必要もないことを自覚していましたから。 一方、デジタルカメラで、カラー写真をし出してから20数年が経ちますが、それこそが普通ではなくて異常な時期で あったわけで機材の欲望に翻弄されていました。それがデジタル黒白写真で正常に戻っただけなんですね。 なお、参考までに書くと、一般的に言って写真人の傾向として、機材への偏重か、もしくは撮影が過多か、という ことであり、そのどちらも傾き過ぎるのはいけないということです。やたら毎週のように撮影に出かけて過ごすという のも、それはそれで欲望に駆られているということです。 と言うことで、黒白撮影にしてから写真に対して過剰な思い入れ、というものが無くなったということです。それが 黒白デジタル写真の最大の効用であり、もしかすると全てかもしれません。 そうなってくると自分への、写真以外の関心というものが芽生えてくるわけです。それが自然です。 カラーデジタル写真では写真への過剰な思い入れというものが有り続けたということで、それが不自然であった ということなんですね。それが正常な関心の配分に戻ったと言うことなんです。 所詮は写真です。たかが写真なんであって、それが自分の中で過剰に膨らんでいたということ自体が自然では なかったということではないんですか。 デジタル写真、これはカラーのデジタル写真のことですが、人をして異常なまでに感心が増大して、もうそれしか 見えなくなる、という不自然で異常な事態になるということ。 それをズバッと切ってくれたのがモノクロデジタル写真でした。なんだ、写真なんて、こんなものだったのかと。 そう目覚めさせてくれる威力が黒白デジタル写真にはあったわけですね。 これ実は、写真だげてなく、パソコンやスマホでもそうですけど、モニターを持つ電子機器装置一般にも同様に言える ということに気が付きました。 これらの製品は、つまりパソコン、スマホ、デジカメに共通するのは、画像モニター自体が発光し、その透過光で 人間の眼に直接、光が入ってくるものなんです。これは直射光ですね。 比較対比をしますと、紙の印刷物とか紙焼き写真というものは、光源が別にあり、その反射光ではじめて見るもの なんですね。直射光と反射光、それは太陽と月くらいの大きな違いがあります。 この直接透過光の製品が本質的には曲者であるということなんです。大げさに言えばこれがこの今の世界を ぐちゃぐちゃにしているっていうことです。 そして私としては、それへの対抗的な対策が黒白写真であったということに過ぎないんですね。画像を黒白オンリー にすれば、透過直射光の神通力が見事に消えうせてしまう。そういうことなんです。 正直、モノクロ専用のモニターが欲しい。そう思います。黒白モニターならばネットの全てをモノクロで見ることができ ますから。 フイルム写真、紙焼き写真でも普通の人は、時期的に言ってカラー写真から始めているでしょう。しかし私の場合 は黒白のフイルム写真から始めていました。1970年代ですね。無論カラー写真はありましたが手軽なのは黒白 フイルム写真でした。 カラー写真から始めた人はフイルム時代でもけっこう機材オーバーでやっていたようです。やはり反射光写真でも カラーとなるとどうしても過剰になるみたいです。 白黒文化というのは文字印刷本が今でも白黒です。白い紙に墨で文字を印刷する。印刷も既にカラー時代ですけど 多量の文字情報の場合は今でも黒白文化で一向に変わらないのです。 ただしネットではカラーですね。どんなサイトもカラーで色づけされています。ここに紙文化と電子文化の違いが あります。モニター文化というものはカラー表示、RGBがスタンダードなんです。 ということで、ここからが本題。ウィンドウズ7でも黒白表示ができそうなので早速やってみました。 "Salvatore" - Isabeau Levito performs to Lana Del Rey at 'Gold on Ice' 2024 https://www.youtube.com/watch?v=sCYYgtYK0bY ショパン - 春のワルツ - (トスカーナ 4K) Chopin - Spring Waltz https://www.youtube.com/watch?v=zrX_pYsQEp8 映像でもカラーでなくとも黒白画面でも美しいですね。なんら不足がないではないですか。 フォトXPを開けば、皆さん全て黒白写真で投稿されているみたいな。(笑) ちなみに黒白画面だと広告があまり 気になりません。 そういう時代の背景というものを知っておく必要がありますね。皆さん、パソコンもスマホもデジカメもインターネット も夢中になって、もはや奴隷状態でやっているのではないですか。少しの時間があればスマホを取り出して見て いるじゃないですか。電車に乗ればスマホ、レストランの椅子に座ればスマホ、信号待ちの歩道でも、自転車に 乗りながらでもスマホです。 それらは全て原因は、表示がカラーだからですよ。また透過直射光だからなんですね。 そういう時代の仕組みというものが私も段々と分かってきました。やはりそういう時代はおかしい、どこか間違っている ということが分かったからこそ、私は確信的に黒白で写真をやることにしたんです。それは黒白の本を読むことと 通じる、この時代への正常な反応というか反旗というべきものかも知れません。 カラーデジタルで写真を撮って、そして投稿写真として黒白写真に仕上げる、と言いう方が増えてきたかもしれません。 しかし、私の黒白写真への考え方とはぜんぜん違います。皆さんはひとつの表現として、流行的に黒白写真を しているに過ぎません。それは一時的なものです。私の場合は黒白撮影しかしませんから覚悟が全く違うんですね。 写真の本質はカラーでなくともできるわけでして、黒白写真時代でも写真文化があったわけですし、むしろ黒白写真 の時代のほうが写真文化は高かったです。 つまり写真というのは白黒で十分にできるわけです。写真として何ら本質に毀損はないのです。

無能

無能

『免疫学問答』 安保徹&無能唱元著 河出文庫刊より抜粋 「命を賭ける」 無能…がん治療の本を読んでいたら次のように説明が書かれていました。それは膵臓がんについて。    「膵臓がんの治療は手術が基本です。」「このがんはリンパ節への転移が多いので、がんが出来て    いる部分と周囲のリンパ節を切除します。」とためらいもなく書かれています。    「がんが膵臓の頭部にできている場合は、膵臓全部を摘出し、十二指腸や胃、胆嚢の一部など、    膵臓周辺の臓器も摘出する場合があります。なお切除した周囲に放射線を照射したり、抗がん剤    を投与したりします。」    さて、この内容が医師から患者へ告げられた時、患者はどんな気持ちがするでしょうか。それは    死刑の宣告にも似た、ぞっとする内容であり、患者への衝撃は察するにあまりあるものです。    ほとんどの患者にとっては、その治療法について選択の余地はありません。ただ唯々諾々として、    手術、放射線、抗がん剤への行程に赴くのみでしょう。 先生…まあ、それが一般人の常識でしょうね。 無能…しかしここで大きく迷う人も出てくるのではないでしょうか。それは、手術、放射線、抗がん剤の    現代の三大医療をやめて、たとえば、玄米や菜食などをベースとした自然治療法などの道を選択    することです。また先生の自立神経免疫法を採用し、三大医療を一切放棄することです。    しかし、これは患者にとっては実に恐ろしいことです。なぜならそれはがんを直接攻撃したり、除去    することをやめることだからです。そして免疫力を高めるということを行い、その効力をじっと待つ    だけなのです。その間に、がん細胞は増殖してしまうかもしれないじゃないですか。    患者は迷い、周囲の人々に助言を求めます。しかし多くの場合、親しい人は三大医療の方を勧め、    がん直接攻撃の対症療法を採用するよう説得するのです。こうして繰り返し免疫能力は痛めつけ    られ、力を失い、患者は短期間のうちに死に到ります。私たちは、この有様を長い間見せ付けられ    てきたのです。 先生…しかもなお、多くの人達は目覚めようとしません。がんを直接攻撃することは、生命を直接攻撃    することであることを。 無能…患者は最終的には、代替療法に切り替えるかどうかは自分で選択し、決断しなければならない    のです。それは孤独な恐ろしいまでの決断です。なぜならばそれは、何ものにも替えがたい自分の    命を賭けることだからです。ここでの決断は、その人の人間力を試されるものであるかもしれません。

鉄

鉄

Sunny G ちゃんねる -- ひきこもり記 8050問題-- https://www.youtube.com/@sunnyg3763/videos 個人の動画投稿ですが、読み上げもなく文字テロップだけ、そしてスローテンポがゆえにか、深く 考えさせられる動画です。 社会のこの深刻な問題は、一般的には親の過干渉とか毒親とか散々に言われていますが、そう 簡単な問題ではなさそうです。 まず免疫学(医学)的に言えば、子供が育つ環境が人工化(化学物質汚染等も)され清潔になり過ぎ たという事実がまず挙げられるでしょう。これは子どもの体力や精神力が低下することになるから です。つまり弱い子どもに育つというか、自然の中で育つ逞しさとは縁遠くなるわけです。 私はこれが基本にあるのではないかと考えています。 それから現象的には知力の問題です。子どもの知能指数が高ければ引きこもりにはなりません。 知能指数をネット(グーグルAI)で調べると… 一般的なIQの平均値は100であり、90~109が平均範囲に該当するでしょう。110以上は「高いIQ」 とされ、120〜129が優秀、130以上がきわめて優秀とされています。 130以上の人々は「ギフテッド」 と呼ばれ、先天的な高い知能や学習能力、特出した才能を持っているとされています。 東大生のIQの平均が120と言われますが、それを超える子がなんと40%もいる。 こちらがペラペラと 話したことを全部理解してしまう、とんでもないクラスになってしまっているんです。 IQ(知能指数)は、知能検査の結果を数値化したもので、知識や問題解決能力、記憶力など幅広い 能力を示します。 これは知的障がいの診断や支援に用いられるほか、知能の判断基準とされます。 知能は単なる読み書き計算能力ではなく(これらは学力のことです)、多様な能力の集合のことです。 … 一般には頭が良いと言われるのは、勉強をして学力が高いことを言うのかも知れませんが、知能指数 というのは地頭、つまり生まれつきの頭の回転力であり強さです。総合力でもあって特に東大生はこの 能力に優れています。(入試問題がそのようになっている) 知能と学力とは違います。ここを混同する人か多いです。学力は勉強ができる環境に育たないと獲得 できませんが、知能はほぼ生まれつき、つまり母体内環境とか乳幼児期に形成される可能性があり ます。 神戸少年Aは知能指数が85だったといわれています。知的障害ではありませんが、ぎりぎりの数値で あって現代社会では普通には暮らせません。彼は本も出版していますか、文章を綴るというのは本を 読んでいれば誰にでも書けるものです。ソロバンの計算力と同じようなもので数学とは違います。 そういえば永山則夫も本を出版してベストセラーになってますね。この本は私も若い頃に読みました が、内容がありませんでした。何の記憶にも残らないもので、つまり模倣文だったというとです。論理的 にも統制がとれていない文なわけです。 個人的に50代の引きこもりの人を知っていますが、地元のトップの進学高校を出てます。高校とか 大学の入試は抜群の記憶力があれば合格するものです。しかしそれだけの能力では社会での実力 競争には付いて行けず脱落します。実学がないからです。 逆にベトナムやインドネシアの、学力も学歴もないが知能が抜群に高い青年に簡単に負けてしまうと いうわけです。近所でそういう外国人の若い人がいますが少し話しただけで優勝さが伝わってきます。 日本も昔はそういう東南アジアの国々と同じような自然環境で子供達が育ちましたね。頭の良い子も 悪い子もいたわけですが、総じてみな逞しく実学を操じることができました。それできちんとそれに合っ た職業を得て家庭も持てたわけです。 日本製鉄会長の橋本英二氏ですが、熊本の田舎で自然環境いっぱいの子ども時代を過ごしていま す。彼はそれを強調していますね。橋本氏は日鉄を立て直した人物で、今話題のUSスチールの 買収を決定したした人ですね。こういう気骨のある人が日本にはまだまだ数多くおられるわけですが、 そういう人は、ただ学業成績や学歴がよくてエリートだというのとは違うわけです。 この橋本氏、私が親しみを持つのは、自分が若い頃、尊敬していた先輩に顔がそっくりなんです。 その先輩も熊本出身でしたね。その先輩からは哲学や宗教学の影響を受けました。余談です。 8050問題。これは深刻です。最後は国や社会で救済するしかないのですが、とにかくこれ以上、引き こもり人を増やしてはいけないということです。引きこもりという不幸を増産してはいけませんし、少子 高齢化と合わせて国そのものが持たなくなります。登校拒否の現状を見ると今後は就労者の数パー セントの成人がまともに就労できなくなるというのは異常な事態です。もちろん登校拒否=引きこもり ではないんですけどね。 それからやはり巷で言われているように親の子どもに対する過干渉というのは当然にあります。普通 の子どもは過干渉されれば反発するわけですが、それを素直に受け入れる子どもも中にはもいるわけ です。 この過干渉(過保護)をなくするだけで、登校拒否や引きこもりはある程度減少すると思います。しかし それが難しいと言われているわけです。親が意識改革をしないといけないのですが上記の動画ブログ を見ているとそれは至難の業という気がします。 親や大人というのは自分の成功体験に自信を持っているわけですね。特に段位は。良い学校を出て 良い会社に勤めているという自信です。自分の人生は成功していると、自分は間違っていないと信じて 疑わないわけです。そういう親が危ないのかもしれません。 そういえばこの掲示板でもそうではないですか。 自分の写真に対する考え方は正しい。クサナギは間違っていると頭から信じているわけですね。 でもそんなの、たまたま自分が運が良かったから成功したわけで、その自分の考えがこの世の不変の 真理ではないわけです。 私は占星術とあわせて、人の運勢の向上の実利的ノウハウというものを研究してきました。しかし 今回は無力であると悟りました。私の開運の術はあくまで高い知能と体力や免疫力を持って生まれて きた人間にしか通用しないものであると分かったのです。実際そのとおりでして、過去にも人様に アドバイスをして、受け入れてくれた人達は極めて優秀な人達ばかりでした。 優れた人達がより幸運になってどうする。そうではない人達こそ開運術を知ってほしいと願うわけです が、考えてみると、それは最初から無理な話であるということです。 「意外すぎる、体調不良の原因を明かします|野中鉄也×川嶋政輝」 https://www.youtube.com/watch?v=-W15UKAb7wU 日本製鉄のUSスチール買収をバイデンが阻止, トランプが再考するか【及川幸久】 https://www.youtube.com/watch?v=h_hnsq3FwUg

無題

無題

ペンタックス板・続3 ボケ多様の写真、もしくは無地部面積の多い写真などは写真ではなく、CGと同列のグラフィックアート であると申しましたが、見方を変えれば、脱写真であるということです。 そしてこれには物凄い利点があります。それは特に昨今の高画素カメラの時代では際立っていて、 意図的に情報過剰の弊害を防いでくれるということです。絵としてはとてもシンプルです。何が写って いるかを考える暇さえ与えないほどの情報の少なさが特徴ですね。もう一瞬で、これはこの絵であると 分かってしまいます。もはや考えるまでもなく見るまでもないというわけです。 それでこういうボケ写真や無地写真は、情報過剰に疲れた人達の多い現代では特に求められている 画像なんだろうと言えますね。時代の要求にマッチしています。 https://photoxp.jp/pictures/225904 こういうのもボケ写真のひとつなのですが、要するに意図的な情報削除であるわけです。 この情報削除という指向自体が脱写真そのものの考え方です。とにかく現在のカメラや写真は写り過ぎ るというわけで、その反作用として出現したのが、ここでいうところのボケ写真、無地写真の存在意義 なんだろうということですね。ですから、脱写真なのです。 過多情報化し過ぎた現在写真に対して、これまたその反作用として意義があるということで、私が選択 したのが黒白写真でした。色情報をすっぽりと削除することで、その要求を実現したわけですが、 この黒白写真はあくまでもレガシーな手法です。 黒白写真は写真の領域に留まっているということで脱写真ではありません。しかしボケ写真や無地写真 は、写真の領域を突破して脱写真になったと私は考えます。 写真か写真でないかは、それは現実的であるかないか。それが決めるでしょう。黒白写真はあくまでも 写真として、この現実世界に留まっていて、つまり写真の領域に収まっているのですが、脱写真はグラ フィックアートとすることで、空想世界、虚空世界、今で言うところのバーチャルな世界となっているよう です。 そこのところが決定的に違うところです。 そういう風に考えると、ボケ・無地写真とは、作者にとっては意図せずして時代の最先端の画像を実現 させたものだ、ということかも知れませんね。 私は古いオーソドックスな人間ですから、そういう時代の最先端の画像を自分に取り込むということは 恐ろしくてできません。写真という概念の頚木から外れることができないということで古過ぎる人間かも しれません。 私が黒白写真を選んだのは、それがコンピューターもネットもない時代の産物だからです。最新でも 1960~70年代の技術です。そういうものに回帰をするということで黒白写真を選びました。 そういう絶対的に安心できる写真技術なのですが、この古さが私には安心感となっています。 デジタル写真の実現した、圧倒的な解像力とシャープさ、ゆえに情報量が多すぎる結果となり、その 過剰情報に溺れることから逃れるために、古い技術である黒白写真になったわけです。 ボケ写真・無地写真も、黒白写真と同じように過剰情報から逃れるということでは共通するのですが、 私は後ろに下がり、彼らは前に進んだわけです。その選択と決断が真反対となりました。 実はもう私としては、アイフォーンなどのスマホ写真でもう充分ではないかと考えています。クラウドに 写真を保存するのはちょっと気に入らないところはありますが、そこを省けばカラー写真はスマホで 良いんじゃないかっていうことです。 スマホ写真の良いところは、全ピント写真(パンフォーカス)が得られるというところです。センサーが 1インチくらいですからボケ写真なんかは得意ではありません。しかしそこが安心できるということです。 正直言って、ボケ写真・無地写真は、写真の持つ属性の力学として、本当にそんな写真を撮っていて、 大丈夫なのな?という不安感があります。 もしかして人間として大丈夫なのか、という薄気味悪さがあるんです。これは理屈ではなく私の予感です。 その点はスマホ写真は、さらにはドローン(MTさんのような)ですら、写真として安心感があります。 センサーサイズって、フォーサーズがそうですが、小さいほうが安心感があります。 ※投稿した写真は、20ミリですのでフルフレームでは30ミリとなります。やや広角というレンズです。 私としては前出の40ミリよりも圧倒的に、この広角側描写が好きです。30ミリとなりますと、小石に ピントを合わせながらも、水平線も画面に入れることができました。 レンズミリ数もボケも人の好き好みだと言ってしまえばそれまでです。それ以上、議論は進みません。 結局は撮影者の世界観に尽きると思うのですが、その世界感に、より多くの人達の賛同しが得られる のかどうか、それが広い意味で写真としての結果となります。 その世界観に広がりがあるのかどうか。それとも詰まっているのかどうか。 ボケ写真は袋小路に入ってしまった写真なのではないかと思えてきます。自ら世界を閉ざしているの ではないかと。 写真は平面の2次元の表現とも言いますが、現実は3次元であり、可能な限り写真は3次元的な広がり を持つべきだと思っています。けっして2次元世界に閉じ込めるべきではありません。 その写真を他人が観て、現実の空間を想像できないと写真としての価値が削がれているということに なります。 ボケ写真には空間の閉塞感がつきまといます。無理に2次元の世界に閉じ込められているという気分に させられますね。 ボケ写真も、無地空間写真も、そして抽象的CGアート(一頃騒がれましたが今はすっかり廃れました) もそうですが、たいへん窮屈な画像世界となるようです。やはり現実の光景には敵わないということ なのではないですかね。 それにしても、なぜ人は敢えてボケ写真を求めるのか。そもそも現実にはありえないボケ世界ですが、 そこに人工的な作り物への奇妙な安心感?があるからですか。私にはもの凄く無理をしているような 気がしてならないのですが。 とにかく私にはボケ写真というものが分かりません。理解しがたいものとしてこの世にあるわけですが、 これを好む人もいるのも事実です。

無題

無題

ペンタックス板の続きです。 普通、写真機を持てば、それを持ってどこかへ出かけたくなるものです。それはどういうことかというと、 カメラというものは、自分の世界の拡張を自然に促すということでしょう。そもそも写真機は人間の、 見るという行為の強力な拡張力を持つからです。 ただ、その世界の拡張というものは、その人がどれだけの身体力や機動力を持っているかで違って くるわけです。自分の脚だけだとせいぜい数キロの範囲しか広げられません。 そしてもうひとつあります。カメラ自体の性能です。単焦点レンズとズームレンズでは拡張力が違い ます。一般的にはズームレンズが範囲が広い。そういう要素は、絞り、AFの有無、連写力、そういう ものでも違ってきます。 例えばカメラが不順でレンズを絞り開放でしか撮れないというのは、カメラの拡張性能に制限がかかっ ているということです。 さらに一番大事なことは、人は何に向けて写真を撮るか、撮影の対象物は何?ということです。 どんなにカメラの性能が上がっても、何を撮るのかというのは、人の自由な選択に任せられています。 何を撮るのか、また別の言い方をすれば、何は撮らないのか。 撮らないもの、カメラを向けないものが多くなると、写真には制限が多くなります。 ペンタックスな人は物凄く多くの制限を自らにかけています。それはストイックなほどて、カメラは1台、 レンズは1本、カメラ不調で絞り開放でしか使えない。そしてそれを修繕もしない。撮影はRAWではなく JPEGのみ。 撮影場所は歩ける範囲内か、しかも早朝の短い、人が無人の時間帯のみ。田園地帯の住まいならば 自然と撮影できるものは決まってきます。 さらに、カメラを向ける方向にも制限を掛けています。足元か頭上か。距離的には数メートル範囲内 で。近接撮影のみです。 どうしてこんなに制限だらけのことをするのだろうか、それを自らに課すのだろうと疑問に思うわけで すが、そもそも本来カメラや写真というものは、自然な拡張力を持っているものなのに、態と強力な 制限、縛りをかけてしまっていることに、普通の人ならば絶対に疑問に思うわけでしょう。 そんなことをしてまで写真をやっても仕方がないだろうと、普通は思ってしまいます。 しかしペンタックスな人は、そうは思っていないわけですね。 使っているレンズは良いレンズで43ミリF値が明るくボケがよくでます。開放値でしか撮れないのでさらに。 撮影する対象は近接撮影ばかりなのでこれもボケがでます。 そういうことなんです。ペンタックスな人はボケの写真が欲しいわけですね。ボケさえ出ていれば対象は 多分なんだってよいわけです。ピントが合って全シャープな写真ではなく、ボケばかりの画像が欲しい わけで。 多くの制限をかけて不思議だなってことではなくて、ボケの写真を得ることだけに邁進していたという ことのようです。それで霧が掛かっていれば遠景の撮影ができたわけですね。霧中のボケですから。 ボケの美意識とは多分、物事を詳細に見ないことです。また、リアルな事実を遠ざけることです。ボケ 表現は、本来裸眼の現実にはありえないものであって極めて抽象的です。 ペンタックス板では、昆虫や花や鳥を撮る高齢者の先輩も投稿していますが、けっしてボケではありま せん。可能な限り、リアルにシャープに撮ろうとしています。ペンタックスな人と同じ近接撮影であるわけ ですが、ボケは排除しています。しかしそれが普通の感覚ですよね。 ボケとはアウトフォーカスのことです。スマホやコンデジは撮像素子が小さいのでボケ、アウトフォーカス の写真が撮れないので、スマホのユーザーはデジイチなどの大きなカメラが欲しいと言います。 それは遠近感がボケでもって表わせるからですね。遠近感とはリアルなのでそれは良く理解できます。 しかし徹底的にボケの写真ばかり撮るというのは、これは普通の感覚ではないです。 それと良く似た感覚では、空とか海とか、さらに徹底して引き算の構図でもって、写真としてのリアルさ を排除した絵画風の写真が、不思議に不良コメント投稿者には人気だということがあります。つまり 写っているものが少ない、非リアルさ、がいいということでしょうか。 つまり無地の面積が多いほどよいという。そういう感覚はボケ写真にも通じますね。 そういうことを考えると、ボケ写真とは一種の抽象力、想像的イメージのことではないのかなって思え てきました。写真という道具を使った絵画というものです。 そう言えばチルトレンズを使って故意にボケを作る写真があります。そもそもチルトは狭いピント面を 広くするために使うレンズなのですが、それを逆用してワザとボケを大きくするというのは普通の感覚 ではなく、空想力を大いに発揮されているのだろうということです。 このようにボケの多用、構図の無地部の拡大をするようになると、リアルさが本命の写真の範囲を 超えた絵画的抽象性の世界、つまり絵画のジャンルなのだろうということですね。コンピューター・ グラフィックと同列に並ぶ、非写真だろうと思います。 そういうわけで、私としては所謂ボケ写真は写真ではないと思うようになったのですが、もし、ボケ写真 を無理やり写真とするならば、それはけっこう危ういことなんではないかと考えてます。 ボケはボケに通じるということで、一旦ボケ写真に嵌ってしまうと、もしかすれば二度と抜け出せない のかも知れないなと思う時があります。 ※私ごく偶にはボケ写真を撮ります。準望遠側で近接物を撮れば自然にボケ写真となるがらです。 そして殆どの撮影は広角側での全ピント写真となっています。私にとってのボケ写真とはその程度 のものです。

無題

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高松・長田さん 亡き父設計の建物改装 「峰山往来文庫」 https://www.yomiuri.co.jp/local/kagawa/news/20240308-OYTNT50229/ 図書館の構想が浮かんだのは、パソコンでの設計作業がきっかけだった。図面を印刷して点検すると、引いたはずの線がないことがあり、「デジタルと紙では、脳の認識が異なるのではないか」と考えるようになった。 穏やかな時間を過ごす峰山に小さな図書館が誕生 「峰山往来文庫」 https://www.nicetown.co.jp/life/77371/ 建築士・長田慶太さんの“思いつき”から始まったプロジェクト。子どもも大人も画面(直接光)から情報を得る現代は、紙などの間接光から情報を得る機会が減少。ますます画面から情報を得る世界に間接光から情報を得る場も大切なのではと考えた長田さんは、そのツールとして“本”に辿り着いたそう。 2024.05.10 四国新聞記事抜き出し 「自然の中で本との出合い 高松・峰山に図書館、廃屋を改修 地元設計士が運営」 構想の切っ掛けは新型コロナウイルス禍で画面越しの対話が増えた現象。それが当たり前になることで ネットの情報に疑いを持たなくなる人が増えるのでは、と危惧した。スマートフォンなどの画面が発する のは直接光。一方、本の情報は周囲の光が紙に反射して間接光として脳に届く。間接光の方が情報を より客観視できるという説もあり、その違いを体験して欲しい。… こんな紹介記事が新聞に掲載されていたわけですが、ネットで調べると現在のところ、けっこう人気の ようです。瀟洒な感じのレストラン(兼、私設図書館)が人気の元なんでしょうけど、そんなことよりもデジ タルスクリーンと紙の印刷物の相違に考えが及んでいる人も、偶にはいるんだなあっていうことで紹介 しました。 現在はもう教科書すらデジタル化しようという時代です。そんな時代に何を言ってるのか?という気も しないではないのですが、しかしフィンランドのヘルシンキでは数年前、小学校の全教科をデジタル化 しようという計画がなされたのですが、父兄から紙の本を使わなければ本当の学校ではない、と反対 をされ中止になったそうです。 小学生なとの子どもにデジタルスクリーンを与えると、当初は学力が伸びるだろうと思います。エストニア の例がそうですね。しかし始めは良くて後が悪い、という良くあるパターンになると思います。高校や 大学生になると、もう学力は伸びないだろうと思いますし、大器晩成などはもう望むべくもないでしょう。 そういうことを知っているかどうか。日本の文科省は教科書のデジタル化には本気じゃないです。 それと同じようなことが言語にも言えるかもしれません。バイリンガルは人間として伸びないのじゃない かと薄々感じている人は多いと思います。 もっとも元々非常に知能の高い子どもには、デジタル化もバイリンガルも関係ないです。易々とこなして いきますからね。でもそういう知能の高い子どもは極僅かです。 そして写真にも、このデジタル化の大波に飲まれているのが現在の写真情況なんですが、写真が紙から スクリーンになり、またテレビと同じような動画志向となり(静止画ではなく)、それで現在では写真をする ことの意義は、大きく薄れているというのはおそらく間違いがないでしょう。 まだ今は、デジタル写真でも、紙にプリントすることで往年の写真の意義を取り戻すことができますが、 これがスクリーンだけの鑑賞となりますと、やがては写真そのものが動画(つまりはテレビです)に食わ れてなくなってしまうように感じられます。しかしまあ、写真という静止画ファンも多いので、そうはならない でしょうが、静止画が斜陽の文化であるのは間違いがないところでしょう。 でも斜陽文化だから、趣味としては面白いんですげとね。また静止画は動画に比べてローコストで手軽 なことが優位を持ちます。 投稿写真は2度目の高知・室戸行きでの道草撮影。芸西村の琴が浜かな。写真に写っているのは南側 の半分、北側にもこれ以上の長い浜があります。人工物の少し高いところからの撮影。 高知県は浜がとにかく多いです。そして久しぶりのカラーでの撮影。やっぱりカラー撮影は綺麗でいい ですね。(^^ゞ  この日は何とバッグごとカメラを忘れて撮影に行くところでした。高速道に乗る前に気が付きましたが、 もう大分、写真には疎くなっている証拠ですかね。(笑) シッポ座さんの投稿で、写真に真実はあるのかどうか。というのがありました。 手早く言うと、写真には真実も正義もありません。写真は紙であり現在はデータです。そんなものに真実 などあろうはずがありませんね。 ただし真実と正義は、写真そのものではなく写し手にあるんではないですか。カメラマンや編集者やそう いうメディアです。そういう人達の努力や自己犠牲です。ですから、あくまでも人です。人間にこそ、真実や 正義というものが宿るのであり、写真という媒体はあくまでも中性的なモノなのではないですかね。 独裁者は写真を使って虚実と不正、嘘と悪をばら撒きます。写真はそういうものにも利用できるのです。 真実を知りたくない人達にとっては、独裁者のプロパガンダは心地よいものです。 今のロシアはプロパガンダの国営放送テレビしか見ない人達が大勢います。自分と身内に被害が出ない 限り、プーチンの嘘の報道は通るようです。しかしロシアが戦争で疲弊しているのは事実であり、それが やがてはロシアという国の分裂に繋がるのでしょう。真実を見ないということはそれは一時の幻の幸せ であり、決して長続きするものではありません。嘘は長続きしないんです。それで心ある人達は苦労を して真実を求めるのです。 肖像権とか個人情報とか、そういうのを言い出したのは最近であり、時代がネット社会になってからです。 このインターネットというのは誰でも参加できるのですが、それゆえに嘘が多いのです。そして悪も。 しかし馬鹿と悪人は何時の時代にも一定数いるものです。これは大数の法則です。しかしそういう人間は そもそも真実ではないので長続きしません。いや長生きできません。何かの拍子で簡単に死んでしまう のです。鰯のように弱いので直ぐに嘘と悪に染まるのです。つまり逆に言えば、真実とは強い人間にしか 宿らないのですね。運勢のレベルから言えば、人間社会も弱肉強食なんです。

雑

雑

「夏日」の写真。とってもいい感じですね。落着くというか何というか、南国的な雰囲気があって、 気に入ってます。その下の堤や銀座の写真も良いですね。シッポ座さんは人物が入る写真というか、 スナップ写真が本当に上手いです。 こちらは最近、写真への熱が随分と冷めてます。もしかすると写真撮影は止めてしまうかも知れな いとすら感じるようになっています。 今ちょっと森山大道の研究をしているのですが、森山氏自身は色々と語ってますが、要するに彼は 一生、歩き通した人間ではなかったろうかと考えています。歩いて歩くことが彼の写真のスタイルと いうか、彼の考えるやり方だったろうということですかね。それはまったく正しかったのだと言えます。 そして生涯、黒白写真を貫き通したこと。この2つが森山大道の本質なのではないかと思ってます。 彼は王道を行く写真家だったのではないかと考えてます。 森山はプロ写真家ですから写真をして飯が食えるというか社会的にも金銭的にもやっていけます。 あまり金には執着はなかったみたいですが名声は文字通り世界的に獲得しました。 しかしアマチュアはそうではないです。いくら正しい写真をしてもそれだけではやっていけないです からね。その点はプロ写真家は眼に見える結果を出すことができます。写真集を出し個展を開いて 世に問うことができるからです。 ここで書くのもなんですが、引き篭もりの生活を送りながら、写真を慰みにするというやり方もある のだなっていうことで、まあ、それはそれで人それぞれの生き方なのだからとやかく言うつもりは ありませんが、やはり残念という言葉しか思い浮かびませんでした。 とは言え、よくよく考えてみれば私の写真行為なんてのも、そういうのと五十歩百歩ではないかと いうことです。彼と比べて私の写真なんてのも、そう大して変わらんのじゃないかと思ってしまい ました。 この20年間、写真三昧で過ごしてきましたが、これからは違うことに挑戦してみようかなって考えて ます。 ------------------------------------------ シッポ座さん。余談ですけど、文章は句読点で短く区切るのが、読みやすくなる肝です。(^^ゞ  ・・・・ペラペラと昨年のフォルダをめくっていて、それで自分は何を撮っていたのかで、それを  今年の撮影にフィードバックしようという単純な思い付きから、(実際には桜を何処で撮っていた  かを把握する為ですが)、昨年3月頃のフォルダをパラリパラリ探っていました。  こういう時に、フォルダ内画像を一々ひとつひとつを見ずに、フォルダ内画像データに関連付け  されたタグやジャンル、カラー、天気etc。それらにフォルダが紐付けされていれば、自分の一連  の閃きやヒントから自ずと抜粋され、それが自動で弾き出されて、それが指定されたフォルダに  一時 保存されたらな、と思ってしまいます。  日本には四季があり、季節ごとの良さがあり、さりとて夏でしか味わえないパワーとか色温度、  空の色云々と、夏には底知れぬ力を感じてしまいます。真冬生まれの私ですが、やはり夏の  空気や夏でしか撮れない写真にやはり魅力を感じています。・・・・ という意味でしょうかね。(^^ゞ 私は印刷屋なので、人様の文章を直すのは仕事の内と言いますか。(笑) ところで、私の場合は、単純に画像のフォルダ名に撮影の詳細を書き込んでいくことにしています。 例えば、 2024.03.09 高松市栗林公園 獅子舞イベント&桜撮影 イオス1DⅢ EF24-70・シグマ70-200 (鳥・鴨の飛び立つショットあり) という具合です。結構長いですね。そしてそのフォルダ名をコピぺして、新たにワードなりエクセル などに張り付ければ、そこから検索ワードひとつで自動検索がてきるようになります。「高松」「公園」 「獅子舞」「イオス1D」「24-70」「鳥」とかでワード検索が簡単にできるわけです。 基本的に撮影日とカメラ機材でフォルダを作っていますので、ワードのファイルは何十何百ページ にも及びますけど、検索を掛けると次々とヒットしていくという具合です。基本タグは撮影日ですので とにかく撮影日さえ分かればしめたものです。そこからは手動でフォルダを探し出していきます。 保存データは、保存するHDDが幾つにも跨りますから、それらは昔はローカルネットワークでファイル サーバ方式で繋いでいたのですが、現在は単純にリムーバブルHDD方式でやっています。しかし 普通はUSB方式でやるのが便利ですね。

雑感

雑感

AIの時代に突入していますが、これから注意しなければならないことは、不用意にご自身のポート レート写真(人物写真)をネットに上げないことだと思っています。例えば・・・ https://photoxp.jp/pictures/224195 こういう家族のお写真などは、これから簡単にAI検索で当人を特定できるようになるでしょう。また 複数の写真があれば生成AIで当人そっくりの高精細写真を新たに創作することも可能になります。 それらが悪用されないという保障はどこにもありません。 写真を投稿された方は、全く写真に関しては素人さんです。もちろんそういう写真はSNSなどに溢れ ているのでしょうが、今後はおそらく何らかの被害が出で来るにつれて、急速に投稿されなくなって くると予想されます。 AI時代になって、これまでは野放図にというか楽観的に考えられていたネット投稿なども、これから は大きく変る可能性がありますね。AIが投稿するSNSなんてのも増えそうですし。時代と共に写真と いうものは変わるのであって、その時代の変化を見極めて、自分なりの写真活動をしていくという 姿勢が大切なような気がしてます。 例えば私が今モノクロ写真に関心を抱いているのは、そのひとつの意味合いとして、黒白写真という 情報量の制限された写真ならば、AIにとっては苦手な写真なのではないかというのがあります。 AIが得意な写真は、輪郭のはっきりしたハイダイナミックレンジ(HDR)風な写真、高彩度や高コントラ ストな写真でしょうか。そういうパッと見て分かる写真はAIが得意だろうと考えられます。 その反対に良く見なければ何が写っているか分からないような写真はAIは苦手だろうと思うんですね。 とにかくスマホ写真などはAIが得意とする写真の代表格ですね。 その反対に例えば監視カメラなどの極度に不鮮明な写真の場合、解析する能力はAIには乏しいので、 もし何か事件があってその画像を分析する場合には最後にはやっぱり人間がやりますね。                   ※ 前回で写真というのは若い時期に始めないと上手くいかないと書きました。これは誤解を招く書き方 だったかなって思います。実は高齢者であっても初めて写真を開始して、写真の本質に迫ることは 可能だと考えています。それで私自身もその実験を行うことにしました。 ケンコーからR72フィルターというのが発売されています。これは可視光線を全てカットして近赤外線 だけで写真を撮るために使うツールです。 カメラのレンズのこのフィルターを着けるとファインダーは真っ暗です。(^^ゞ これでは構図もピントも まったく分かりません。それですべてカンと手動で設定を行わなくてはならなくなり真昼でも三脚撮影 となります。得られた写真はダブルトーンの画像となりますが、もちろんモノクロでも可能です。                   ※ 風景写真板の 「道の駅」 https://photoxp.jp/pictures/224213 この掲示板初?のドローンカメラによる投稿写真ではないでしょうか。このジャンルの写真はもっと 増えてもよさそうなのですが、高齢者が多い掲示板ですので中々ドローン写真が登場してきません でした。これから大いに期待したいところです。(^^ゞ  小型カメラの搭載なのですが必要にして十分という画質です。 DJIは中国の世界的、いや世界№1のドローンメーカーです。中国はこのドローンと監視カメラに極め て強いです。日本のカメラメーカーが世界一というのは確かにそうですが、カメラのジャンルによって はそうではないのですね。                   ※ 茹でただけ、もしくは冷のウドンに醤油だけを掛けて食うのは、今は、ぶっかけウドンと銘打っていま すが、もともとは農繁期などで忙しいとき、田圃の畔で農家の人達が、時間を惜しんで昼飯として 食した風習のなごりです。 現在でも忙しい営業サラリーマンが、うどん屋で、ずるずると、黙々とぶっかけウドンをすするっていう 光景に継承されていますかね。 香川の人間はとにかく時間の無駄を気にします。そのせわしなさには県外の人は驚くのではないで しょうか。そしてセルフサービスを厭いません。香川のうどん屋は基本、セルフです。普通の食堂でも 店の人が忙しければ片付けなどは客が率先してやるんですね。そういうおせっかいさがあります。 香川県は小さな県でして、降雨量が少なく地力も乏しい県です。本来貧しい県なんですね。昔は半農 半漁も多かったですし、半農商売・製造業というのも普通でした。農業だけでは食っていけない、文字 通り百姓(百通り)の技で、何でもこなして副業にいそしんでいたわけです。 二毛作で稲作の裏作として大麦・小麦も作っていたというのが、さぬきうどんの発祥です。地場で塩も 醤油もつくりますし、イリコ漁業もやっていた。その小麦と塩と醤油とイリコでさぬきうどんの出来上がり です。 そして香川と言いますか、四国には遍路さんへの、おせったい、の文化が根付いています。これは 貧しい遍路さんに(へんろさんは貧しいに決まっていて)、食事を出したり一夜を貸したりするボランティア 精神です。そして昔は遍路さんというのは命がけでお四国を回るんですね。行き倒れれば丁重に葬っ て、小さなお墓、お地蔵なんかでもまつります。 貧しい農家の人が、おせったいとしてさらに貧しいお遍路さんにウドンを出していたというのもあるん でしょう。うどん出汁をとったイリコがそのままウドンに乗っていたというのも普通に風景としてあったろ うと思いますね。 (うどん屋で出しとしてとった後の昆布を捨てるのはもったいなくて、テンプラの具として、または刻んで サービスとして出しているところがあります。さぬきウドンの出汁は多用で複雑でして、イリコだけでなく 昆布、かつお、しいたけなどお店によって様々です。) うどん屋でうどんの副食として出されているのが、すし(稲荷すし、ばらずし、巻きずし)や五目飯などの 握りと、揚げテンプラです。具ざいは、やさい、げそ、たこ、魚など。あーっ、思いっきり炭水化物ばかり ですね。(笑) とくかく、早く食えて値段が安い、というファーストフードばかりです。 香川では、うどんプライス基準で外食の値段が決められていますので、他所の県よりはラーメンも蕎麦 も、ご飯ものも安いです。とにかく安くしないと消費者には見向きもされないということで、お店の人は 大変だろうと思いますね。 なんでも安い香川のうどん屋でも、例外的に高価格の店があります。何処とは書きませんが宇多津町 にある有名店です。うどんも高いし副食の海老天も高い。高いし並ばなければ店にも入れないということ で地元の人は見向きもしませんが、県外客には大人気です。 私も見聞の為に一度行きましたが、お店は御影石で飾っていて、もったいぶったメニューに呆れ果て、 二度目はありませんでした。こういうのは讃岐うどんとは言いがたいですね。 反対に香川資本ではありませんが、地元名をとった○○うどん、として全国展開している有名チェーン 店。数度行ったことがありますが、麺はさぬきうどんそのもの、お見事です。しかし出汁がイリコ出汁で はなく、関西風というか関東風。実におしい!というところですね。しかし地元の人間は出汁が讃岐して いないので冷淡ですけど、私は評価しています。イリコ出汁が苦手、臭いっていう人にはカツオと昆布 だしはベストです。 さぬきウドンの真髄は、そのうどんのコシにあるのであって、出汁は二番手です。私の実家はさぬき うどん発祥の地と言われるところなんですが、内陸部の農村なので、部落の皆さんが集った時に出す うどんは、大鍋であげた、うちこみウドン(湯がかず具ざいを入れてそのまま食う)です。そしてなんと出汁 はドジョウなんです。ドジョウじるですね。どじょうは出汁として、そしてそのまま具ざいとして食います。 サトイモや大根や野菜もたっぷり。むろん出汁はドジョウだけでなくイリコ醤油などもいれますよ。 徳島なんかに行きますと、イリコの代わりに川で取れるハゼになります。これがまた美味いんです。 ところ変われば出汁は変わる。というのが私の讃岐うどん観です。 昔はうどん屋では掛けウドンと湯だめウドンの2つだったんですが、さぬきウドンがブームになるにつれ ぶっかけウドンが新たに登場してきました。 こんな貧しい香川のうどんの食い方を県外の人に見せるんかい。 と、私も奇妙に思ったものですが、考えてみればこれこそが香川のうどんの精神、ソウルフードかも知れ ませんね。今はそう思うことにしています。 田圃の畦道で時間と手間を惜しんで食ったウドン。遍路さんへのおせったいで出した貧しいウドン。 他所の県の人が見ればびっくりするような食い方なんですが、もしかしてこの貧しさが県外客に共感を 呼んでいるのかも知れません。そういう、言わば貧しさの共有ですか。同じ日本人としての。 しかしそうはいっても、さぬきウドンは心まで貧しいとは限らなかったのです。 現在の讃岐うどんブーム。かつての贅沢なバブル時代では考えられないわけで、それだけ現在の日本 は貧しくなっていて、それが讃岐うどん精神の持つ、セルフサービス(助け合い)、究極の食い方の ぶっかけウドン、うどん遍路巡礼(宗教的なまでの崇高さ)に繋がっているのではないですかね。 貧しい讃岐ウドンなんですが、心は豊であるというのが、やはりさぬきウドンなんです。 ちなみに私は、ウドン屋へ行けば絶対にぶっかけは注文しません。栄養の偏りは著しいし、ちゃんと 掛け汁のウドンで、肉や野菜がたっぷりと入ったものしか食いません。そしてゆっくりと食べますね。 香川のうどん文化や精神が、そのまま今の日本のそれとは限りませんが、確かにひとつの日本の精神 を表わしているというのはあるんでしょう。 シッポ座さんが、ぶっかけウドンに触れられていて、なるほどそういう感じ方もあるんだなってことで、 私のさぬきウドンの考え方も少し変わったような気がします。(^^ゞ  最近は全国的に蕎麦ブームだとかで、東京などに行きますと高級店で高価なプライスの蕎麦を提供して いるみたいなんですね。でも考えてみれば蕎麦なんて本来、まずしい庶民の食い物じゃないですか。 そばつゆレシピなんてもったいぶったことを言ってますけど、貧しい農民が米のとぎ汁を捨てずに食べて いたというのと同じ発想です。 うどんも蕎麦を安くないと話しになりません、香川ではどんな有名店でも(一部の例外を除き)、ウドンは 安いです。ブームになったからと言って値段を上げた店はありません。地元人が食いに行っている限り、 ウドンは安いのです。 私も最近は蕎麦に凝っていて、スーパーで売っている蕎麦の乾麺(実に種類が豊富、そして安い)を、 湯がき、出汁はイリコ主体のカツオ昆布だしでやってます。蕎麦だけど出汁は讃岐風というわけ。(笑)  というわけで、さぬきウドンは働き者の香川県人や四国人たちが作り上げたソウルフードであるわけ で、且つ宗教精神の巡礼のお遍路さんにも通用した食べ物です。ウドン脳(糖尿病)になる恐れもありま すが、値段が安いということでお許し願いたいものです。(笑)

無題

無題

この山、香川にはよくある円錐型の山で標高300メートルくらいでしょうか。それでこの山を登った ハイカーが、やたら、この山は良かったねって言うので、私も釣られて登ってきました。 ところが登る途中も山頂も、ずっと見晴らしは悪くて、なんとも面白くない山だったんですね。大体 単調な直行登山路だし。 それで改めて、よかったっていうハイカーに、どこが良かったの?と再度聞きますと、何と、登山道が、 ずっとロープを張ってあって要するに傾斜が凄かって登りがいがあるから良かったんだっていう返事。 要は景色が良かったっていう話ではなくて、体に鞭打てる山だったから良かったんだということだった わけです。(^^ゞ  なんとも間が抜けた落ちになりましたが、ようするにハイカーとか登山愛好者というのはスポーツと して山を捉えていることに改めて気が付かされました。山の自然とか風景とかではなく、自分の肉体を 駆使するのが何よりも喜びなのだろうというか。 まあ、私も自分の健康と体力維持の為に写真をやっているわけだから、さほど違わないといえば そうなのかもしれないけど、でもやっはりそういうのは根本的に違うよねって感じました。 一方、山を写真の風景としてだけ捉えていて登山には無関心の人もいたりします。人それぞれかも 知れませんが、やはり物事は総合的に見てとらえたいよねって感じるところです。 私はこの山を登った前も後も山の周囲を広く散策して写真もしています。考えてみればそういう視点 の人って殆どいないんじゃないかって思うわけですね。 こんな小さな山でもその周囲にいくつかも溜池を抱えていて、農業への大切なインフラとなっています。 と同時に風景として人の眼を楽しませてくれるし、中には太陽光発電を浮かべた溜池もあったりで 2重のインフラ設備にもなったりもしています。また麓には半ば自然に還った段々畑の遺構もあったりで 歴史とか時間経過も感じさせてくれるわけです。また墓地公園もありました。 実はここは高速道も走っていて、写真にも写っているわけですが上手く隠されていますね。しかし撮影 と登山中は始終、その騒音が聞こえてきていました。 そして当然に自然の動植物もあるわけですし、とにかく風景というのはその多重性多様性には驚くばかり ですね。そういうことで私としては物事を風景を総合的に見て行きたいなって思ってます。 カメラを持って歩いていると、ステレオタイプに野鳥撮影ですか?とか言われるのも、結局は世の中の 多くの人は単純にひとつの物事しか見えていないんだろうということ。その裏返しのことなんでしょう。 スポーツとしての登山、野鳥撮影としてのカメラだけじゃないんだって思うんですけどね。 ワンアクション・スリーゴールというのがあって、つまりはひとつの行動で3つの結果を得るということなん ですけど、そういう多重性と複合性を自分の生き方に常時備えなければいけないのじゃないかな?って いうことですかね。 写真はカラーのカメラでRAW-DNGで撮ったものを純正ソフトで現像したものです。APSカメラのモノクロ RAW撮影では、まだAPSモノクロームカメラに敵わないようです。 と言いますか、モノクロ専用機で取った黒白写真を見続けていると、本質的にカラーRAWをモノクロ化 したものとは違うって感じるようになりました。 たしかフイルム時代の最後でも、モノクロフィルムなのにカラー現像をするフィルムがあったような記憶 があります。それは本当の銀塩モノクロフィルムではなくて、カラーフィルムのように色素を定着するもの だったかと思います。 ペンタモノクロームにもっとも近いカラーカメラは、多分シグマフォビオンカメラだろうと思います。 共通するのはカラーフィルターがないことですね。そしてピクセル間の補完処理をしていないことも共通。 フィルムで言えば純粋な銀塩フィルム(つまりモノクロフィルム)に相当しますかね。 それでペンタモノクロームもフォビオンも極めてシャープで発色というか輝度に濁りがありません。 極めてストレートであってウソがないということでもあるんでしょう。 技術的に言えばカラーフィルターがなく補完処理もしないということなんですが、その画像を見ての感覚 というのは、モノクロ専用機は、カラーカメラでモノクロで現像するというのとは本質的に違うよねっていう ことになります。 結局はカラーカメラでモノクロ化するというのは、カラー写真のひとつの表現としてのモノクロ写真である ということになるのでしょう。本当のモノクロ写真とは本質的に違うということです。 しかしこれは厳密に言っているのであって、そんな面倒なことを考えなくても、たとえカラーカメラであっ ても潔くモノクロのJPEGで撮影すれば、それはデジタルのモノクロ写真であると言って差し支えないと 私は思っています。モノクロ写真の敷居を高くすることには賛同できませんから。 そしてモノクロ写真のもっとも有意な点は、それはカラー写真に比べてローコスト写真であるということ。 そのローコストの意味は、眼の疲れ脳の疲労を防ぐということ。それに尽きます。そして眼や脳の負担 を減らすことが、写真としての本質に近づくことであると私は信じるからです。 この本質を見誤ると黒白写真の意味をスポイルしてしまうので注意が必要だろうと思ってます。 本当に写真が好きな人は女子供のように色に惑わされることがないからです。色に幻惑されない写真 ということではモノクロ写真は最適です。

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