SIGMA Photo Proソフトウェア 作例

無題

無題

香川県観音寺市の海側は、こういう浜があるんですね。 昔は全域の10数キロが全部遠浅の浜だったのですが、埋め立て られ農地になったり工場団地になったりで、いまは9割方は消失 していると思います。 ここでは潮が引いた時、浮き上がる浜は100-200メートルかな? ここで写っている浜は満潮時には全て水没します。 瀬戸内は干満の差が大きい場所があって、2米くらい差がある ところがありますね。瀬戸内は潮の入り口が、大きく東西2箇所 あって、その潮の流れがぶつかるところが干満の差が大きい ようです。香川県は干潮の差が大きいところでしょうね。 ここではマテ貝も採れます。砂地に開いた貝の取水口に塩を 振りかけてやると、本物の潮が満ちてきたと貝が勘違いして、 潜っていたマテ貝がニョキニョキと姿を現すんです。(^^; とてもユーモラスな採り方ですね。 日本各地で自然の浜の消失が危ぶまれています。 ダムが整備され、泥流が河口に届かなくなったこともありますし、 山の植生が復活し、禿山が少なくなったからですね。 ここの浜はわりと残っているほうじゃないでしょうか。 地場の海産物は日本各地、もう地方によって同じというものが なく、少しづつ違っています。生物の多様性というかその土地 その海の環境によって姿形が違っているみたいですね。 ジョウレンでのアサリ採りは、此方とは言葉もやり方も同じですね。 ジョウレン鍬で掬って、ジョウレンザルに入れて潮で濯いで貝を とる。(^^; 最近は貝も養殖放流しているので一般の人がそういう多量にとる やり方をすれば叱られますが、地元の人はそうやって採取して いるようです。 一般の方が小さな道具でコテコテと採る分には大丈夫です。それでも 家族で行けば1時間くらいでバケツ一杯にはなるんでしょうか。

untitled  

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最近はSD1Mで写真を撮る機会が多くなってきて、それでSD1Mの 撮影ペースに自分がピッタリとハマっているような気がする。 先日などは、SD1Mだけを持参して、朝から夕暮れまで、60GB近く 撮影したと思う。 レンズは、広角と標準と望遠のズームだけ。みな小さなレンズのみ。 バッテリーは4セット用意して3セット目を入れたと記憶する。1セット はバッテリーグリップに入れる数なので2個となる。手持ちは古いバッテリー ばかりなので持ちが悪いと思うが、元々小さなバッテリーなので そうは負担にはならない。メディアの重さは無きに等しい。 SD1Mは連続して7カットくらい撮影すると、書き込みが済むまで 待たされるのだが、そういう意味ではDPメリルがサブカメラにあれば とつい思ってしまうのだけど、まあ、なければないで慣れてしまっている 自分がいると思う。(^^; SD1Mがスローペースだと言っても、フィルムカメラに比べれば大した 連写能力だとおもうのだけど、物事は全て相対的な見比べから出発 しているので、SD1Mの遅さに我慢ができない人は多いと思う。 私にとって、SD1Mはシグマで初めて満足できるカメラとなっていて、 また他のメーカーのカメラを含めても、高度に満足できているカメラだと 思っています。 なんにせよ、自分なりに満足できるというカメラに出会うことは嬉しい ことです。その満足度の度合いといえば、イオス5D+5D2や、ニコン D700+D600の各々2台分を1台で満足しえていると言えば、大体の ところが想像できるかも思います。 画質と画素数のバランスだと思うのですが、こう両方が高度に満足 できているのがSD1Mだと考えています。 イオスやニコンは連写能力が非常に高くて、バンバンと撮影ができる のだけど、後で思うと撮り過ぎだなって反省することが多いのです。 それで、カメラはあまり高速である必要はないという自分なりの基準 というのを設けると、案外にSD1Mのペースは良いのかもと思ってしまう のです。 そう思わせるような不思議さがSD1Mにはあって、それで、RAWソフトの 遅さも、ともすれば過剰になりやすいデジタル世界に於いて、ちょうど よいブレーキになっているのかも知れないと思ったりもしています。 不思議な・・って書いたけれど、それはあくまで私にとっての主観で あって、私とシグマのカメラの相性と関係があるのかも知れないと 感じています。だから人によってはぜんぜん縁がない場合もあるん でしょう。 シグマの絵が、はたしてどのように他人には感じられているのかは、 私としては正直言って想像することも出来ないのですね。 しかし私にとってはシグマの絵は、大変リアリティに富んでいて他に 代えがたいものだと感じています。そういう独特の世界がシグマに あるのだとはハッキリと断言できますね。 シグマの絵は、一言でいうと実際に見た光景の記憶と、カメラで撮った 絵の表現が、その乖離が一番少ないカメラではないかと考えています。 リアリティというのは言い換えるとそういう言葉回しにならざるを得ない のですが、自分の眼とカメラの眼が離れすぎないというのは、これは 大事なことなんじゃないかなって思っています。 とは申しても、やはりこれも主観的なものなんですね。物事が渋く見える 人もいれば派手目に見える人もいるからです。 上記、写真は徳島県、吉野川中流です。

二歩写真

二歩写真

畦道と書くよりも、あぜ道ですか。 私が子供の頃は畦道ばかり歩いていたような気がします。 比喩で言っているのてはなく言葉通りのこと。当時は舗装された 車道が整備されていなかったので、田舎では畦道が公道だった ような気がする。 そのうち太い道が出来、舗装されてよくはなったのだけど、 結局それは車の為の道であり、歩行するものは車に跳ねられ ないようにビクビクしながら隅っこを歩くことしかできなくなった。 その点、昔ながらの田んぼの畦道はあくまでも人間のための道 であるわけです。 畦道には車は侵入できない。(たまに自転車とか原付きが 走ったりするけれど)  この安心感は絶大で、この親子も 舗装道を歩いていた時は子供の手を繋いでいたけれど、畦道 ではそれも不要。もっとも二人並列では歩けないか。(^^; 写真も時代と共に大きく変わりました。 今の写真は、人と人との繋がりというものを重視しているように 思われます。写真の価値として、記録とか、表現とかいろいろと あるのだろうけど、デジタル時代の現在は、つながっていることが 最も重視されているように思います。写メールとか。 その繋がりのインフラと言うべきものは無論、ネットですね。 このフォトXPの場も、そういう繋がりのひとつであろうかと思います。 例えばもし、フォトXP掲示板が閉鎖されるようにことになれば、 一瞬にしてその繋がりとやらは消滅することになります。 ですから、写真をあまりに、繋がりという観点ばかりで慣れてしまうと、 ネットが切れれば、そく写真愛好家を廃業しなくてはならなくなる 事態に追い込まれます。 本来、写真とネットのような媒介物とは相性が良いようです。 昔は写真・カメラ雑誌の投稿もそうでしたしね。もっとも私はその ような媒介物を利用したことはありませんでしたが、デジタルと ネット時代になってからは、相当に深く介入や利用をしているように なってしまいました。 ネツトという乗り物に乗った写真。 これが今の現在の写真の実勢かと思うのですが、そこでもうひとつ の畦道を歩くような地道な写真も忘れてはいけないように、最近は 思えてくるのです。 写真というのは、車に乗っては撮れません。車から降りて自分の 足で歩かなければ、写真は撮れませんね。 そうした写真を今度は、ネットという乗り物に乗せてしまうという、 不思議な矛盾。(^^; 私は矛盾をこよなく愛好する人間なんだけども、最近はもう少し 余裕をもって、乗り物写真ではなく畦道写真をやっていきたいなあ って考えています。 繋がり写真は、あくまでも現在進行形でしかない私写真なんだけど、 これが記録写真となると、こんどは時代とか社会とかも視野に 入れなければならなくなる。さらに深い内省も求められる。 自分が取り戻したいのは、要はそういうことなのかも知れないと思う。