その他デジタルカメラ用掲示板。
神社の狛犬・獅子は、拝殿や向かって左が口をつぐんでいる狛犬で、右が口を開けているのが獅子です。ところが下に投稿した写真は左側が獅子となっていて、変だなって思ったら、写真が左右反転していました。(笑)最初に縦位置撮影で画像が寝ていて、間違った操作で上下が逆になったのを天地反転させたのが原因のようです。確かに獅子の下側の字が逆文字になってます。(^^ゞ 今回上げた写真が、本当の正写真ですね。パナソニックのレンズはコントラストが強くて、そのぶん中間諧調が乏しいのですが、メリハリのある写真になります。ボディのパナL10の画質もそのような傾向なので、その相乗効果でかなり硬い描写となりますが、言い換えればダイナミックな描写となります。モニターによってはL-1やオリンパスのレンズは、描写が眠いように見えるかと思いますね。(^^ゞ パナソニックのカメラで最高の画質を出してくれるのは、フルサイズ機のLUMIX DC-S1/S1Rです。センサーはソニー製ですが、画像エンジンはパナソニック製なので、しかも渾身のエンジンとも言うべきものを搭載したカメラですから、その画質は中判カメラ並みだと私は思っています。あまり人気のないカメラかも知れませんが間違いなく名機だと思ってます。ただレンズの手持ちがゼロなので手を出し難いカメラとなっていますね。フォーサーズカメラは望遠には有利ですが、しかし標準や広角レンズを着ければAPSやフルサイズカメラと同じような一般的な写真が撮れます。youzakiさんもぜひ、フォーサーズ機を大いに使っていただきたいと思っていますよ。(^^ゞ この「その他デジカメ写真」にも投稿をお願いしたいものです。なお、望遠撮影やマクロ撮影に眼が慣れていると、普通の撮影はまどろっこしいところがあるかも知れませんが、ごく普通に眼で見えた感覚で素直に撮れるのが標準や広角レンズです。それは肉眼での視野角のことですね。私、個人的には広角や超広角レンズが好きです。何も考えずに肉眼で見たままの広さが得られるからですね。大雑把でズボラな写真術ですけど、記録として撮影するには便利なレンズとなります。なお広角レンズも、接近して撮影すれば被写体は大きく撮れますね。ところで下のリンクの動画をみていると、佐渡島でのトキの話が後半に出てきました。「ネオニコ系農薬 人への影響は【報道特集】」https://www.youtube.com/watch?v=0J1T-MO3t5Uトキはなかなかに綺麗で優雅な鳥ですね。たぶん佐渡へ行かないと見れない鳥だとは思いますが。(^^ゞ
素敵な窯犬の写真いいですね・・先の投稿の狛犬も良かったですが後ろ姿もいいです。台座の彫り物も気に入りました。また素晴らしい狛犬の紹介を期待しています。
ペンタックス645Dで致し方なく、手馴れたキャプチャーワンからライトルームを使うようになっているのですが、こと645Dに関してはソフトの動作の重さに不本意を託っています。やはりキャプチャーワンは4000万画素でも5000万画素でもスピーディですからね。ライトルームでの645Dは、ほぼシグマのSPPでのメリル並みの遅さですから。とは言っても1000万画素クラスのパナソニックだとスムーズに動作してくれます。ライトルームの画質は悪くないですね。もっとも645のライトルームでも、読み込み始めてしばらく放置しておきますと読み込みが進んできてスピードは上がります。そこらへんはSPPとは違うところ。とにかく様々な機種だけでなくソフトも多様性を持たせたほうが面白いかなって思いましたね。ペンタックス645Dはその圧倒的な光学ファインダーが利点なのですが、これに慣れるとフォーサーズのファインダーは極めて小さく感じます。その中間がフルサイズやAPSカメラなんでしょうけど、慣れというのはあるもので、使っていると小さなファインダーのパナL10や、ミラーレスの背面液晶での撮影でも苦にならなくなります。つまりはファインダーというものは、あってもなくてもさほどに重要なものではないのだということでしょう。一番に大事なのは裸眼の肉眼で撮影するものを決定することですからね。それを最後に確認するだけの役割なのがファインダーですから。写真は見て撮る。肉眼で見て探して写真を撮るわけですけど、もっと大事なのは、その光景に至ることができるのは自らが歩いているからであって、歩いてそこまで到達できるから撮影ができるわけです。むですから、写というのはファインダーでもなくて、眼でもなくて、本当に大事なのは、歩けることだと最近はひしひしと感じています。それからただ歩くだけではなくて、カメラを持てなければなりません。その両足と両手があるから写真ができるのであって、そんなこと当たり前じゃ、と言われるかもしれませんが、写真にとって大事なことは詰まるところ、健康な身体だということでしょう。健康な心身さえあれば写真は容易くできます。ということは心身が不健全であれば写真は出来難くなるということでしょうか。そして写真をして思うことは、さらに写真を撮りたければもっともっと歩いて出かけなければならないということ。つまりは健康であり続けないと写真は継続できないわけですね。歩いていって、カメラを持ち続けて、そしてこの世界の様々なものを見続けていくということ。写真とはそういうことなんではないかと最近は思えてきています。良い写真を撮るとか、それを見せてどうこうするとかいうのは瑣末なことなんでして、とにかく自分の写真をやり続けていくと言いますか、この世界に興味をもって歩き続けていくことの大切さが最も大事なんではないかなということですかね。コロナ禍を切っ掛けに、最近は身近な場所での撮影に終始していますが、それでも被写体に不足を感じることは一切ありません。狭い香川や四国のなかでも十二分な世界が広がっています。日本全国を走り回ったところで、地球を股にかけて出かけたところで、太陽系や宇宙に比べれば微々たるものです。私にとってはこの四国の、瀬戸内の世界で満足ですしそれ以上は望むべきものではありません。むしろ、これからは自分の内面に広がる世界を発見していきたいなって願っています。とにかくこの世界は多重性に満ち溢れていますね。多様というよりも多重性であって、圧縮されているというイメージです。紐解く鍵を見つけ出せばその多重がほどけ多様な世界観を見せてくれるわけです。
残留思念という言葉があります。ある人が自分の思い、思念、ついては欲望というものを物に込めるというくらいの意味です。その典型が古代の王の墳墓です。殆どの墓は盗掘にあってしまい王の思念は残ることがありません。もちろんそれで良いわけです。そして写真にも自分の思念を込めることが可能ですが、特別な思考をする自欲過多の人が写真に念を込めることをするようです。断っておきますがそれは芸術ではありませんし、写真の本性でもありません。芸術の仮面を被っているようでいて、その実は単なる自己拡張を写真に押し付けているだけなのです。それを見抜かないと人は簡単に残留思念の弊害(呪い)を受けてしまいます。私はよく神社を撮ります。神社の発祥や起源は様々ですが、最近面白い神社を見ました。元は古墳です。かなり大きな円墳なのですが、その半分が神社の建物によって削られているのです。これはどういうことかというと、残留思念という古墳の残滓を、神社という装置によって浄化するという役割を担わせているのではないかということです。神社は浄化のシステムを持った一種の装置でしょうか。香川は溜池が多いのですが、大きな池には必ず神社が付随します。溜池は大きなインフラなんですが当然に自然を破壊してしまいます。その償いとして人々は神社を建立するのではないかと感じたわけです。そして神社の杜には無くなった土地に生えていた樹木を添えるのです。これは罪滅ぼしの意識なのかもしれません。神社には偉大な人物を起源とする神社も多々在ります。日光東照宮などは典型ですし天神や八幡もそうです。出雲大社も伊勢神宮もそうかもしれません。これは人物を称えているようでいて、本当はそうではなく罪や穢れの意識から祭り上げているように思えてきます。どんなに偉い人物であっても所詮は人間であって、多くの人々の願いや欲望というものの総意で国を建てたとはいえ、それによって自然というものは破壊され姿を変えていかざるを得なくなります。そう考えれば大きな神社も、溜池に付随する小さな神社と役割は変らないということになりますね。神社の造りは極めてシンプルです。鳥居があって真っ直ぐに進んだところに拝殿と本殿があるだけです。このストレートな配置とその間の空間が神社の命という気がしています。とって着けたような説明かもしれませんが、これはカメラに良く似ていますね。まずレンズ先端があって、その中をストレートに光が進み、そしてフィルムやセンサーに到達しますから。(笑)鳥居と本殿のあいだの空間はデジタルになってからますます狭くなっていますけど、まっすぐに光が走るということは変りません。私は罰当たりかもしれませんが神社に詣でて撮影をしていて、手を合わせるなどいうことをしたことがありません。平気でずかずかと入っていき無遠慮に撮影しまくります。鳥居があり石柱や狛犬獅子があり石灯篭があり・・・そういうのはカメラのレンズの中を通り過ぎていくという感覚であって、私自身が光であるとすれば何の遠慮もいらないということになりますから。おそらく全ての神社の大本は太陽神かもしれません。太陽の光と水があれば作物や植物や動物たちは育ち生きていけるのであって、これよりも根源的なものは他にありません。こういう神社装置というものがあって、それによって穢れを取り去り人としての罪の意識を払拭するのではないでしょうかね。おもしろいものを発明したよねっていう気がしています。私は一個の光の粒子にすぎないのであって、レンズやカメラの中を散策するようにして神社とこの世界というものを見ている。そういう気がしています。
パナソニックL1とL10は良く似たネームですが、全然違う成り立ちのカメラなんですね。そもそも形も違うしバッテリーも違います。L1はオリンパスE330と同じフレームを使っています。オリンパスE-300と同じ方式のペンタプリズムを使わない形の一眼レフですし、E300やE330が中級機でありボディ品質もよいように、L-1も高品質のカメラです。そして映像エンジンも優れています。手を抜いていないカメラなんですね。L10はどうかといいますと、これはオリンパスE510ベースでして、510と同じような廉価機というべきです。510は映像エンジンの手抜きはないと思いますが、L10は手を抜いています。発色が浅いですし、色転びをよくします。露出補正も正確ではありませんね。(参考)オリンパスE330(750万画素)発売日・・・06年2月パナソニックL1 (750万画素)発売日・・・06年7月オリンパス510(1000万画素)発売日・・・07年6月パナソニックL10(1000万画素)発売日・・・07年10月それで実験的に前回とは真逆のレンズを着けて撮影をしました。今度はL1にパナソニックのレンズ。L10にオリンパスのレンズです。価格帯は同じクラスのレンズ同士です。そうすると、L1は映像エンジンがしっかりしているのでほとんど変化なし。やや発色が浅くなったかな、というレベルです。パナのレンズも解像度がありなかなか良いレンズだと思いました。そしてL10にはオリンパスのレンズを。前回と違って発色が安定しています。黄かぶりが多かった写真がニュートラルになりました。色も飛ばずに出ていますね。ここら辺りの相違が、カメラの違いといいますか搭載する映像エンジンの相違なんです。オリンパスでもE330は良い色が出ますし高級機っぽいのですが、パナもL1は高級路線なんですね。ファインターも良いですしね。(やや暗いのが欠点)そして510やL10になると大衆路線になり、カメラの品質は落ちています。映像エンジンすら落としてくるというわけです。デジタルの場合は後から出るカメラの方が優れているという印象を多くの人がもたれているかも知れませんが実際はそうではありません。価格帯やコストダウンでデジタル部分もコストカットの対象になるんだということです。画質と言えば、多くの人がレンズの仕事であると思われているかも知れませんが、撮像素子や映像エンジンでも画質は大きく違ってくるわけでして、やはり高級機は良い色を出してきます。もちろん今回試したように廉価カメラをレンズでカバーするというのも正解ですが、カメラの映像エンジンも良く考慮して選択しないと後で不満足がつのるという場合もあるわけです。イメージセンサーは汎用性あるのでカメラの価格帯で相違は見せないと思いますが、映像エンジンはカメラ機種ごとに違ってくるとみたほうがよいです。廉価機や中級機の下のクラスを買って、それでレンズは高級なものを揃えるというのはあまり賢くはありません。それよりも高級機や中級機の上位機種を買ってレンズはそこそこで揃える、というのが懸命な購入法かもしれませんね。映像エンジンと言えばRAWソフトもそのひとつなんですね。よく言われるのが正確に丁寧に撮影すればJPEGとRAWとは同じ結果を得られる、と思っている人達がいるということです。RAWの役割は大雑把な撮影をして後で修正をするための手法であるというわけですか。しかしながらRAWソフトは一種の映像エンジンですからJPEG撮影とは段違いの画質を出してくるというのが事実です。JPEG撮影は手抜きのエンジンなんです。これを理解できていない人は素人に多いんですが、おそらくRAW撮影をしたことがないからでしょうね。見比べができていないといいますか、その違いが分かるPCを持っていないからかもしれません。そんなわけでカメラやPCの映像エンジンというのは大切な役割を持っているのであって、これを無視して写真はできないと思ってます。とは言ってもカメラの映像エンジンの不備を他の手段、レンズとかソフトとかで、ある程度は補えるというのもこれまた事実です。今回比較したパナL1とL10ですが、実際に撮影をしてみて使いやすいと感じたのは廉価機のL10なんです。カメラの形状がL10のほうが持ちやすいのと、ファインダーは廉価なのですが明るいというのが原因です。(L10のファインダーに装備されたミニマグニファイヤーは外して) L10や510は安物なんですけど使いやすいというのは確かです。漏洩電磁波はL1もL10も同レベルですから、画質が落ちるという欠点があったとしても使いやすいL10の方の出番が多くなるというのはあるでしょうね。パナL-1はボディ品質も良く映像エンジンも良いのですがやや使いづらいということで損をしているという感じです。※写真はL-1にパナソニック14-50F2.8-3.5のレンズ。
写真はL10にオリンパス14-54F2.8-3.5のレンズ。
写真はL10にパナソニック14-50F2.8-3.5のレンズ。
今晩は 狛犬は大好きで他のサイトでも狛犬の写真を探し鑑賞しています。素適な写真が拝見でき楽しめました、感謝です。私も以前は4/3cameraファンでE-1からE30まで8台あります。M4/3cameraも4台あります。鳥の撮影を休止して今はEOS7Dがメインカメラですが時々L10,E-30,E-M1も使用しています 。L10の写り腕がいいのにまたレンズが良い素敵な写に脱帽します。
撮影レンズはペンタックス67用の75ミリf4.5の標準レンズです。換算で0.8倍の60ミリ相当です。無論手持ち撮影です。ピントはフォーカスエイドを使ってます。マウントアダプターはペンタックス純正のもの。自動絞り機構が効きますので使いやすいです。
撮影レンズはペンタックス67用の55ミリf3.5の広角レンズです。換算すると45ミリですか。重量級のレンズですので腕が鍛えられるのが嬉しいです。(^^ゞ
RAWソフトの問題で買ってはいたものの使えなかったカメラです。今回ペンタックス用でライトルームをインストールしましたのでやっと使えるようになりました。レンズはオリンパス14-54F2.8-3.5。この時代のデジイチ用のレンズはオリンパスが断然に良く、パナソニックのものは画質がよくありません。パナのレンズが良くなったのはミラーレスになってからですね。同時代のパナL-10というL-1の廉価機も所持しているのですが、カメラの品質としてはL-1の方が格上です。それでも画質も含めてデジイチのカメラの出来としてはオリンパスが断然に優れていたようです。
このカメラは液晶モニターが壊れていて画像を見ることもカメラを設定することも不完全になっています。電源のオンオフの接触も悪かったのですけどそれは何とか直ったみたい。しかしAFの定め置きができません。レリーズボタンの接触が鈍っているのでしょうか。なんとも不完全なカメラですけど、こうやってまだまだ使えています。ようするにカメラは手に持って歩いて撮影できればそれでいいんだいという気がしてます。(^^ゞ 島山歩きの記録写真です。船に乗って自転車で走り、山道を歩いて山頂にのぼり縦走しました。二百㍍程度の小さな山ですが文字通り海抜からの登りとなっています。あえて言えば「道」ということがこの写真群のテーマでしょうか。我々は生まれて以来からずっと、人それぞれに人生の道というものを歩まされるのですがその道は平坦とばかりはいえません。初てっばなから苦難の道だったり、また途中で墜落することだってありますね。しかしその道筋のほとんどは先人が歩んで出来上がった道でしょう。こうして小さな山でも既に山道は出来上がっているのでして、そこを外れて歩くことはあまりしません。しかし失われてしまった道も多くありその道を歩いて復活させることもできます。人生の道があれば、この歴史にも道筋というものがあります。歴史は繰り返すと言われているように大概は良く似た道を繰り返しているみたいですね。もしかすれば世界の歴史も百年前と同じ道を歩んでいるのかもしれません。こうやってカメラをもって写真を撮り、道を歩けることが何よりの楽しみとなりました。歩けていることが何よりも嬉しいということですか。この身体も70年近く続けていると何処そこに不如意なところが出てきます。脛が痛んだり記憶力が衰えたりでその都度原因を模索して解決しているのですが、やがては思うにまかせぬようになるのてしょう。とにかく人生の最後の友は写真やカメラになったという感じですね。(^^ゞ それが写真ではなく菜園だったり釣りだったりする人もおられるでしょう。なんでもいいからやはり有意義な趣味というのは必要かなって思っています。しかし写真は高齢者の友だけだとは限りません。それは当然のことであってむしろ若い人にこそ写真というものを身に着けて、そのノウハウでもってこれからの人生を楽しんでいってほしいと願っています。私の場合、写真の第一義として、歩きを大前提としてあげています。これは10歳代で写真を始めた頃からの習慣です。もし私が50歳代で写真を始めたならば、こういう歩きの写真術は学べなかったかもしれません。また撮影中ずっとカメラを手に持っての撮影術も同じでしょう。物事への習慣づけというものはやはり若くなければ身に付かないように思えますね。
道